「遠野物語拾遺255(縁起担ぎ)」
家を出て最初に女に遭うと、その日は一日よいことがあるが、和尚であったら三歩戻って唾をするものだという。蛇に逢えばその日は吉。またその蛇が道切りであって、右手から出て来た時は懐入りといって、金が入るという。 「遠野物語拾遺255」...
View Article「遠野物語拾遺252(三光楼)」
青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であった故に、土地の者はこの人をも三光楼と呼ぶようになったが、しまいにはそれが屋号になって、今でもその家をそういっている。 「遠野物語拾遺252」...
View Article「遠野物語拾遺253(通過儀礼)」
男の子が初めて褌をあてる時には、叔母に晒木綿を買って貰う。また初めて生えた陰毛は必ず抜かねばならぬ。そうすると肝入り殿が抜かれたと言って後からうんと生えて来るのだそうな。 「遠野物語拾遺253」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー...
View Article「遠野物語拾遺240(忌み嫌われる双子)」
双児が生れた時には、その父親が屋根の上から近所に聞えるだけの大声で、俺あ嬶双児を生んだであと三辺喚ばわらなくてはならぬ。そうせぬと続け様に、また双児が生れるといわれている。 「遠野物語拾遺240」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー...
View Article「遠野物語拾遺241(産屋)」
産屋の中では、産婦は藁一丸の枕をする。一丸とは十二束のことである。そうして一日に一束ずつ抜き取って低くして行き、二週間目には平枕の高さにするものだという。産婦は産屋にいるうちに、平常食べるあらゆる食物を少しずつ食べて置くようにする。この時に食べておかぬと、後でこの食物を食べる時に必ず腹を病む。ただ一例外なのは灰気のある物で、これは一切食ってはならぬとされている。...
View Article「遠野物語拾遺244(クセヤミ)」
妻がクセヤミ(悪阻)または出産の時に、その夫も同時に病むことがある。諺にも、病んで助けるものは、クセヤミばかりだという。 「遠野物語拾遺244」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー...
View Article「遠野物語拾遺247(捨子)」
年廻りの悪い子は捨子にするとよい。まずその子に雪隠の踏張板の下を潜らせた後、道違いに行ってちょっと棄てる。始めから拾う人の申合せが出来ていて、待っていてすぐ拾ったのを、改めてその人から貰子をする。こういう子供には男なら捨吉、捨蔵、女の場合はお捨、おゆて、ゆてごなど、捨という名をつけることが多い。...
View Article「遠野物語拾遺248(取子)」
生れた児が弱い場合には、取子にして、取子名をつけて貰う。一生の間、取子名ばかり呼ばれて、戸籍名の方は人が知らぬと言うことも往々にあった。佐々木君の取子名は、若宮の神子から貰ったのが広といい、八幡坊から長介、稲荷坊からは繁という名を貰っておいたと言うが、しかし一向強くもならなかったといって笑った。...
View Article桜シーズン到来
この陽気に我慢出来ずに、約半年ぶりにカメラを持って外に出て見た。観光客からの要望の多い、貞任山経由から白見山登山道を横目に見て、広又沢林道を下って琴畑に出るコースが行けるかどうか確認したかったのもある。しかし、やはり林道の一部が雪で覆われていて、まだ完全に林道は開通になっていないようだ。...
View ArticleSLイベント
何やら駅前に、馬が登場しているので何事だ?と思っていたら、どうやらSLが走る日らしい。 よく見りゃ、馬だけでなくしし踊りの団体も駅前に集まっている。去年やはり、SLが走るたびに、しし踊りが踊っていたのを知ってはいたが、見に行った事は無かった。当然SLも、汽笛の音は聞いていたけど、その姿は…。...
View Article「遠野物語拾遺226(贋金)」
青笹村字中沢の瀬内という処に、兄弟七人皆男ばかりの家があった。そのうちに他国に出あるいて終りの知れない者が三人ある。総領も江戸のあたりを流れあるいていたが、後に帰って来て佐比内の赤沢山で、大迫の贋金を吹いて、一夜の中に富裕になったという話が残っている。 「遠野物語拾遺226」...
View Articleイーハトーブ
雪融けて桜が咲き、早池峯が春の日差しで浮き上がる姿を見、思い浮かんだ言葉がイーハトーブだった。イーハトーブは宮沢賢治の造語であり、エスペラント語に影響されたと云う。イーハトーブの変遷があるらしく、イエハトブ → イーハトヴ → イーハトーヴ → イーハトーヴォ/イーハトーボ →...
View Article「遠野物語拾遺119(羽黒との類似)」
土淵村の若者達が4人、5人、琴畑川へ木流しに行った時の事である。不動ノ滝の傍らにある不動堂に泊まっていたが、夜嵐が烈しかったので、堂の戸を堅く締切っておいたのに、夜明けになってみると、その中の一人が堂の外に投げ出されたまま、前後不覚で熟睡をしていた。宵に締めた戸はそのままであったから、これは神業であろうと言い合って恐れた。六、七年前の冬の事である。...
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