遠野不思議 第九百四十二話「八咫鴉神社」
この八咫鴉神社は、遠野の管内ではなく江刺の米里に属する。実は、遠野市小友町の80を過ぎる女性から聞いた話では、婦人病にいいからと小友町の女性は歩いて五輪峠を越えて、米里の八咫鴉神社に参詣していたそうである。遠野の女性に縁深い神社だから、ここで紹介したいと思う。正式名称は「八咫烏(やたがらす)神社」だが、遠野では「カラス神社」と呼ばれいた。延暦二十年(801年)田村麿の命により、人首丸追討の田村兼光が...
View Article瀬織津比咩の祭祀其の四十七「中沢麓山神社(米里)」
「江刺市史」第四巻社寺旧跡篇によれば、麓山神社の相殿社には、大綿津見命、火の神、瀬織都姫命、大山津見命が祀られていると記されている。今までは岩手県の神社庁の情報によれば、主祭神大山祇だけが前面に出ていた為にチェックを怠り、相殿に瀬織津比咩が祀られているのがわからなかった。ただ妙なのが、祭神大山祇(本地聖観音)で、その大山祇は何故か相殿にも祀られている。そもそも、聖観音と大山祇が本地垂迹の関係だとは聞...
View Article瀬織津比咩の祭祀其の四十八「新山神社(松坂)」
慶長四年(1599年)頃の創建。別当は中島家中、修験薬王院。農業と安産の神として崇敬されてきた神社。瀬織津比咩の多くは、安産や婦人病に効果ありなど女性に対する神としても岩手県内に知られる。これは熊野大神の不浄を問わず受け入れるというものが根底にあるものと思える。社殿の脇には画像の木札が、かけられている。「大地を守護し土地から物を産み給う...
View Article梨木平(其の五)
千城央「エミシとヤマト」に「馬に関する地名」の項に「梨の木平」が載っていた。まず「追戸」という地名、「産鉄民が森林を伐採した跡地に馬を放して繁殖した所。後に、村人の共同採草地となった。」とあり、その「追戸の中にあって柴地となり木が無い所が"梨の木平"」と説明されている。...
View Article琴畑と妙見(其の一)
菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」において、菊池輝雄氏は「土淵村琴畑の落人伝説」について述べている。 「十件ほどの家はすべて琴畑姓だ。落ち武者伝説をもち、加賀からおちのびてここに住みついた平家の流れと称して、明治頃までぼろぼろになった幟があった。先祖は琴の名手で、慣れない畑仕事の合い間に琴を弾き、はるか故郷の加賀の国をしのんだ。地名はこれに由来するという伝承をもっている。」...
View Article琴畑と妙見(其の二)
土淵村の若者達が4人、5人、琴畑川へ木流しに行った時の事である。不動ノ滝の傍らにある不動堂に泊まっていたが、夜嵐が烈しかったので、堂の戸を堅く締切っておいたのに、夜明けになってみると、その中の一人が堂の外に投げ出されたまま、前後不覚で熟睡をしていた。宵に締めた戸はそのままであったから、これは神業であろうと言い合って恐れた。六、七年前の冬の事である。...
View Article琴畑と妙見(其の三)
先に、菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」において、琴畑の不動堂を「この堂は加賀を向いているという。」との記述を紹介した。加賀とは加賀国であり、現在の石川県。恐らく磁石上では「西南」を向いているとなるのだろう。しかし実際に磁石で不動堂の方角を見ると、北を向いているのを確認できる。北を向いているというのは恐らく、早池峯を意識しての事だろう。ただ菊池輝雄氏の「加賀を向いている。」だが、その加賀国、現在の...
View Article琴畑と妙見(其の四)
菊池輝雄氏は「山深き遠野の里の物語せよ」において、「落ち武者伝説をもち」「加賀からおちのびて」とは述べているが、それを示す文献(古文書)を示していない事から、それは恐らく口伝だろうと思える。また菊池輝雄氏は、朱塗りの文化の無かった遠野に、マヨヒガ伝説を持ち込んだのは木地屋(木地師)であろうと説いている。また琴畑には長者屋敷が二か所あるという事に言及している。柳田國男もまた、琴畑の長者屋敷について「金...
View Article笛吹峠
現在「笛吹峠(ふえふきとうげ)」とは呼ばれているものの、大正時代の「上閉伊郡誌下閉伊郡誌」によれば、「吹雪(ふぶき)」が転訛されて「ふえふき」になったと云う。吹雪を意図した笛吹峠の話に、吹雪の日に峠を誤って転落し、助けを呼ぶ為に笛を吹いたが発見されず、死んでしまった盲人の話がある。...
View Article物部氏と遠野(其の二)土淵の始まり
土淵町の地域誌である「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。この記されている住所は、常堅寺と観光地となっている、俗に土淵の河童淵と呼ばれる場所となる。「まつざき歴史がたり」の「猿ヶ石川物語」には...
View Article照井さん
千城央「エミシとヤマト」に、阿弖流為(アテルイ)の事が書かれていた。 「山道のエミシの代表は、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、延暦二一(802年)年に母禮とともに処刑された大墓公阿弖流為で、その本拠地は岩手県奥州市水沢の辺りにあって、実名は「照井」であったと推測されます。」...
View Article琴畑と妙見(其の五)
ここで、もう一度「琴畑」という地名を考えてみよう。菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」では琴畑の地名の語源説を「先祖は琴の名手で、慣れない畑仕事の合い間に琴を弾き、はるか故郷の加賀の国をしのんだ。」と記している。しかし琴という楽器は、畑仕事の合い間に奏でる楽器ではない。琴は出雲神話での「天の召琴(あまののりこと)」でわかるように、降神楽器であった。これにより、琴の別名は「神懸かり板」とも呼ばれたのは...
View Article恐ろしい東北六県の謎
往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。...
View Article天国に召されそうになる曲
昔、CDショップを眺めていたら、一枚のCDに目が止まった。「グレツキ交響曲第三番(悲歌のシンフォニー)」という表題が付いている。作曲家のグレツキ…『知らないなぁ…。』。古典的な作曲家は、いろいろな場面で名前を聞く場合があるが、現代音楽の作曲家は、余程じゃない限り記憶に残らない。その当時、現代音楽の枠組みであっただろうストラヴィンスキーでさえ、もう古典的作曲家みたいに感じる。このグレツキの交響曲の三番...
View Article夜泣きと乳の粉
遠野高校の敷地内の一角に、夜泣き神様(夜泣稲荷)の社が鎮座している。赤ん坊などが夜泣きすると、夜中でも行って参拝すると、不思議に夜泣きが止んだという。夜泣きは、今も昔も赤ん坊がするものだが、神様にすがるほど昔は夜泣きに苦労したのだろうか。赤ん坊の夜泣きの原因は、単純に言えば赤ん坊にとっての不快感だろう。蒸し暑い、寒い。煩い。お腹が減った。体調不良etc。不快感を親に訴える為に、泣く。そういう意味では...
View Article「現代遠野物語」 第百十八話(処刑場跡 其一)
遠野の南の町外れであり、上郷町の来内との間に、遠野ダムがある。現在は、遠野第二ダムが完成した為に遠野第一ダムともいうが、古くは来内ダムとも呼ばれていた。その遠野第一ダムである来内ダムの着工が昭和28年。そのダムが建設される位置から下流域一帯が、ダム建設予定地になっていた。その下流域に栃洞と呼ばれる地がある。そこから、おびただしい人骨が発見された。恐らくだが昔、ダムが建った辺りを"ケッコロガシ沢"と呼...
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