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松崎町駒木であり、遠野馬の里の側に「マンコ長者の愛馬供養の…。」という標柱があり、その奥にマンコ長者の愛馬を祀った駒形神社(蒼前堂)がある。
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この駒形神社には謂れが二つほどある。一つが、マンコ長者の愛馬が倒れ供養の為に神社を建立し、旧1月16日を縁日として参拝したとの説。もう一つは、八幡太郎義家が桔梗ヶ原にて狩をしている際に、秀馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀ったので「脛折り蒼前」と名付けたという、どちらも信憑性に欠ける伝説となっている。
ところでこの「マンコ」だが、現代ではいささか口に出し辛い名称となっているが、本来は目の上の女性に対する尊称であったようだ。また有名な「曽我物語」での曽我兄弟の母親の名は「満江(まんこう)」で、四国の果てまで旅をし伝説を作った事から、あちこちに「まんこ屋敷」と呼ばれる跡地があるらしい。民俗学者の松山義雄は「"まんこ"は、童子の霊の口寄せの巫女の名前であったかもしれない。」と述べている。可能性として、"まんこ"という女長者はいなかっただろうが、"まんこ"と呼ばれた高名な巫女は、この駒木の地にいたのかもしれない。この駒木の地に住んでいた巫女であるまんこの、一頭である愛馬を祀った蒼前堂であるならば、八幡太郎義家の馬を祀ったという話よりも信憑性は高くなるだろう。
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ところで、この駒木の地に館跡がある。「遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書」によれば、この駒木地域では「館」とだけ伝わっており、地域を考慮して「駒木館」とはしているが、情報は一切不明としている。この報告書の調査員は、その理由として南部藩時代に「語部」を禁止した事をあげている。この語部とはつまり、敗者の伝承を禁止したという事。ここでの場合、南部氏以前に遠野を支配していた阿曽沼という事になるだろうか。しかし、それ以前となると奥州藤原氏や、その祖である安倍一族まで遡るのかどうか。ただ事実として、この駒木の地に誰かが住んでいた事が、調査でわかっている。
また、地域紙である「まつざき歴史がたり」でも「駒木の人々でさえ"駒木館"の存在を知る人は少ない。」と述べている。気になったのはその駒木館のある地形の記述だった。「後ろに高栖山を背負い」とある。これは「琴畑と妙見」でも書いたが、鷹は鍛冶の神でもあり、産金・冶金に深く関わる。その鷹をシンボルとしているのが、古代の豪族である秦氏である。大和岩雄「秦氏の研究」「河内・山城の鷹巣山。鷹尾山・鷹ヶ峰」の項で、「"鷹巣を名乗る氏族が秦氏系"であることからみても、秦氏が鷹をシンボルとしていることは明らかである。」と述べている。とにかく全国の、鷹巣・鷹尾の付く地名・山名に関係しているのが秦氏である。恐らく、駒木館の背後の山の本来の名は、鷹巣山であろう。
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この駒木の駒形神社の額には「蒼前堂」と書かれている。この蒼前(そうぜん)は「勝善(しょうぜん)」とも言われ、福島県相馬地方の妙見信仰は、勝善神と習合し牛馬の守護となっている。この蒼前堂の狛犬が牛であるのも、その影響によるものだろう。そして馬は妙見の化生、使徒であるともされた。
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恐らくだが、遠野で有名な旗屋の縫の「旗屋」も、秦氏の秦ではなかったか。「旗屋の縫物語(山の祟り)」に登場する暗い夜道に現れ、旗屋の縫を家まで導いた白馬は、暗闇から目的地へと導く星の役割を担っていた。その旗屋の縫の観音堂手前に白馬を祀る駒形社の根底は、妙見と馬との結び付きを意図したものであろう。駒木の地の蒼前堂も含め、鷹巣山など、ちらほせと秦氏の顔がチラつく。実際、阿曽沼氏が横田城を築く以前に、近くには奈良時代の遺跡とされる高瀬遺跡がある。その高瀬遺跡からは「物部」と記された須恵器が出土している事から、その物部氏の同族ともされる秦氏が遠野に来ていてもおかしくはない。いずれ言及するが、横田という名称も「横田物部」と云われた物部氏が遠野に移り住んでのものではないかと考えている。同じ、横田村である陸前高田に「猿楽」という地名があるのだが、猿楽の祖は秦氏である事からも、陸前高田の横田村も秦氏が移り住んだものと考えている。