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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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「遠野物語拾遺89(家の闇)」

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前にいう砂子沢でも沢田という家に、御蔵ボッコがいるという話があった。それが赤塗の手桶などをさげて、人の目にも見える様になったら、カマドが左前になったという話である。

                                                   「遠野物語拾遺89」
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遠野市綾織町の砂子沢にある家の話であるが、佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」を読むと、綾織にもいくつか、名称は違うが座敷ワラシと御蔵ボッコ(クラワラシ)が現れる家が紹介されている。その中で一つ、気になる話を紹介しよう。

綾織村字大久保に、水口という農家がある。今から七十年ばかり前の事、正月十四日の晩、非常な大吹雪であったところが、その夜宮守村の日向という家から、何かしら笛太鼓で囃子ながら、賑やかに出て来たものがあった。それが水口の家の前まで来ると、ぴったりと物音が止んでしまった。世間ではそれが福の神で、その家に入ったのだと言ったそうである。それから水口の家の土蔵にはクラワラシがいるようになって、家計が非常に豊かになったという事である。                              

                              「奥州のザシキワラシの話」
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笛太鼓で囃子ながら賑やかに来たものとは、何であろう。夜の吹雪の中を行列で進むものとは、人間では無いと理解できる。これが福の神の集団であれば、七福神が思い浮かぶが、それから水口の家に憑いたのがクラワラシであるならば、それは百鬼夜行の類であったのかもしれない。その中から、クラワラシが水口の家に入り込み憑いたと考えた方が普通である。

古代から、光と闇、内と外の領域が語られて来た。光と闇や内と外は相反するものでありながら、互いに共有し合っている領域でもある。神々や魑魅魍魎が跋扈するのは、太陽が沈んで闇が拡がる夜からであった。その境界は、夕暮れの人の顔もよく見えなくなる誰彼時(たぞかれとき)であり、早朝の彼誰時(かはたれとき)であるのは、丁度光と闇の交わる時間帯でもある。闇の拡がった吹雪の夜の外から、相反する家の内に入り込んだクラワラシ(座敷ワラシ)は、光と闇を自在に移動できる存在でもある。座敷ワラシが活動する時間帯の殆どは、夜である。太陽の光溢れる昼間の外は、明るい。ところが家という構造は、その太陽の光を遮断するように出来ている。昼間に闇の生じるのが家であるなら、闇に生きる座敷ワラシにとって、家に棲み憑くのは願っても無い事であろう。闇にまぎれて、その姿を隠して悪戯する座敷ワラシ。その座敷ワラシが「遠野物語拾遺89」では、見えるようになったとの事。影とは人間にとっての生命力の強さだとも云われる。つまり、影の領域が狭まり薄くなるという事は、その家の力が弱まったものと見る事が出来る。家の生命力が薄まったからこそ、座敷ワラシが見える様になったのではなかろうか。

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