
盆の十三日の夕方、新仏のある家では墓場へ瓢箪を持って行っておく。それは新仏はその年の盆には家に還ることを許されず、墓場で留守番をしていなければならぬので、こうして瓢箪を代りに置いて来て迎えて来るというわけである。土地によっては夕顔を持って行く処もあるという。
「遠野物語拾遺270」
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以前にも書いた様に、瓢箪は魂の器でもあった。前方後円墳は、その瓢箪を半分にした形であるとされている。人が死んだら、墓地に埋葬する。それが魂の依代である器でもあるのだが、その朽ちた器から魂は抜け出して、天へと昇って行く。遠野だけでは無いが、天とは高い山を示す場合が多い。遠野では、早池峯山や六角牛山の頂手前に、賽の河原がある。また貞任山や耳切山には、地獄山と呼ばれる場所があり、死んだ人の魂が集まる場所とされている。その魂も肉体という依代が朽ちたものの、一年に一度はその生まれた家に帰って来るのだが、1年目の魂はそれを許されないしきたりがあるというのは、あの世にも現世の様な決まり事があるという人間の想像によるものだろう。つまり、肉体が朽ちても魂は、新たな世で生きていると信じられたという事。
この瓢箪を持って行って置くという事は、恐らく分霊を意味するのでは無かろうか。墓場の留守番をする霊の代わりとなるのが瓢箪であるなら、家に帰る霊と同等のモノが瓢箪に入っているのだと。つまり、新仏の霊が分霊されたと理解できる。

画像は夕顔だが、遠野では「ゆあご」と発音する。瓢箪の仲間である事から、瓢箪の代わりにもなる。ところで新仏(あらぼとけ)とは、死後初めての盆に供養される死者の霊であり、新精霊(あらしょうりょう)とも新霊(あらみたま)とも云うのだが、遠野では「あたらしほとけ」と言う。