
この羽黒山五重塔画像は「遠野なんだりかんだり」氏より、お借りしました。
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天慶年中に、平将門が建立したと云われる五重塔が、羽黒山にある。ただ平将門は天慶二年に蜂起し、天慶四年に敗れているので、実際に五重塔の大旦那だとしても天慶年中にこの五重塔を見る事は無かっただろう。この五重塔が何故に平将門と結び付けられたのかは、やはり妙見信仰に関係するからだろう。内藤正敏「羽黒山・開山伝承の宇宙観」では、その五重塔内部に羽黒三所権現が本尊として祀られているを紹介している。中尊を羽黒山本地仏の聖観音、その脇士に軍茶利明王と妙見菩薩が置かれているのだと。羽黒修験の口伝によれば、聖観音は太陽で、妙見菩薩は北極星、軍茶利明王は南斗六星であると云う。そして、その五重塔の正面に立つと、その向きは東を向いており、そこには羽黒山山頂と安久谷がある。この羽黒山本社に立つと、北に向って拝む事になるという。それはつまり、方違えの呪法であろうから羽黒もまた、北を重視した信仰であるのがわかる。
しかし、この羽黒山三所権現が、各々太陽・北極星・南斗六星という事には疑問が残る。まず、日本では北斗七星ばかりが有名で、南斗六星は馴染の無い星になっている。この北斗と南斗を配する構造だが例えば、古代中国の都に長安があり、そこに斗城と呼ばれる城があった。正確には長安城の事を言うのだが、その斗城とは北斗と南斗の図が描かれた城であり、その城を中心に考えられ、長安そのものが斗の都であった。

「北斗は死を司り、南斗は生を司る」という伝説があるが、長安城の北斗と南斗の図は、あくまで長安城の中心に天極としての北極星があってのものとしての、北斗と南斗であった。そして、それと同じ構造が、伊勢神宮にも配されていた。上記の図は吉野裕子「大嘗祭 天皇即位式の構造」から拝借したものだが、北極星を中心に配された北斗と南斗と同じように、伊勢神宮では正殿、そして荒祭宮を北の中心として、西宝殿と東宝殿がそれぞれ北斗し南斗を表しているという。つまり、北斗と南斗は、北極星を中心とする構造が一般的である筈だ。それ故に羽黒三所権現の中心を太陽とするのには、疑問である。恐らく、 能除太子が八咫烏に導かれたという伝承による影響が大きいのだろう。
熊野で云われる神武天皇を導いた八咫烏は太陽の象徴であり、その熊野修験が羽黒山へ行き、羽黒修験の元となった。その為、本来は熊野大神が羽黒神として祀られたのだったが、羽黒側が熊野修験を排除し、独自の由緒を作り上げたらしい。しかし、その熊野の影響である八咫烏は消える事無く、今でも羽黒に伝わっている。羽黒の意味も、八咫烏の黒羽に関係していると云われる。その為に、太陽信仰も残ったままなのだろう。だがそれは、由緒の迷走から来たものだろう。羽黒修験の基本は天台宗から始まる星の宗教であった筈だ。そこには北を重視する北辰の信仰がある為、羽黒三所権現の中心に来る聖観音は、北極星を意味する筈だ。だからこそ、妙見の北斗と軍茶理の南斗が意味を成してくる。

早池峯から発生した水が流れ、滾り落ちる又一の滝の本来の名は、天の中心の"太一の滝"であったろう。その滝を御神体とする早池峯の女神である瀬織津比咩は、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる。その荒祭宮は、伊勢神宮の北の中心となる太一であった。瀬織津比咩とは、白山神であり、熊野神であり、伊勢神宮に到っては、アラハバキと結び付く妙見神でもあった。蝦夷国における瀬織津比咩の中心は早池峯であり、妙見・伊勢・熊野・白山と、まさに宇宙の中心の神が早池峯に鎮座したようでもある。平将門の乱が蝦夷と連動したのでは無いかと思えるのは、最初に紹介した書簡。
「天慶三年二月廿六日、陸奥国言上飛駅秦状伝、
平将門率一万三千人兵欲襲撃陸奥出羽両国云々…。」
陸奥国司などが、平将門が攻めて来ると怯えたのは、平将門と蝦夷の民の信仰が同一であり、その蝦夷の神でもある瀬織津比咩を中心に、反朝廷の意識が高まり連動すると判断されたからであろう。星の信仰は、朝廷に対する反逆の信仰でもある。それは、古代の悪星神"香香背男"から始まっていた。その香香背男の「カカセ」とは「穢祓」を意味し「ヲ」は接尾語である。西国では水神と伝えられる香香背男は、つまり瀬織津比咩の変化でもあったのだ。

桓武天皇の無数にいる落とし子の一人である平将門が、皇位に就くとは有り得ない話。唯一それを成し遂げるには、自らの血を錦として謳い朝廷を倒さなければならなかった。しかし、平将門を守護していた筈の妙見神は、平将門の心変わりを感じ、平将門から離れたと云う。その平将門を倒したのは、藤原 秀郷である俵藤太であった。その俵藤太は、瀬田の唐橋において、桜谷に鎮座する瀬織津比咩に見込まれ、百足退治をした人物であり、その褒美から竜宮に招待されたという伝説を持つ人物だ。瀬織津比咩の加護が平将門から俵藤太移ったのは、偶然ではあるまい。そして、その俵藤太の末裔が遠野を支配したのも偶然では無い筈だ。
源頼朝が奥州征伐の後、軍功として阿曽沼氏に、早池峯に護られる遠野を与えた。歴史上はあくまでも軍功としてである。しかし、阿曽沼氏に脈々と流れる俵藤太の血を、頼朝が欲したからではなかったか。
蝦夷と連動したであろう平将門の乱の中心にいたのは、妙見神であった。その妙見神と同じ神を信仰する安倍一族と、源義家は敵対した。そして、その安倍一族の信仰を受け継いだ奥州藤原氏を滅ぼしたのは、源頼朝であった。その源頼朝の心配は、次なる反乱であったろう。古代の蝦夷の蜂起が、庚申の年に起きたという事実に対し、そこに発生したのは為政者としての不安であったろう。日本の歴史上、常に為政者に対して反乱してきたのは星の信仰を持つ者達であったからだ。だからこそ、平将門を倒した俵藤太の末裔である阿曽沼氏を、妙見神でもある早池峯の麓に置いたのではなかろうか。
然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為
す。日分かれて星となる。 「日本書紀纂疏」
星が堕ちて石となり、その石は金の散気であると信じられていた時代、その金を自在に操る蝦夷の民が居た。未だに蝦夷の民が鍛えた蕨手刀の鍛練法と、その原料である鉄の出所は謎のままである。その蝦夷の信仰する星神は、山に鎮座する山神でもあった。その山を中心とする信仰と文化と技術に、幼少時に陸奥国に住んでいたと云う平将門は影響されたのだろう。しかし、その信仰と文化と技術を土台として、自らが頂点となるよう新皇と名乗った事により、その神が離れてしまったのだろう。平将門の信仰した瀬織津比咩という神は、神名こそ歴史の表には出ないものの、常に時代の動乱の中に生き続けていたようである。