
部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同と云ふ。此神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、之を上より通して衣装とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式に白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常の事なり。或は誰かに抱起され、叉は室より突き出さるゝこともあり。凡そ静かに眠ることを許さぬなり。
「遠野物語14」
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「オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同と云ふ。」大同は草分けの家とも云われるが、大同年号は、岩手県内の古い神社仏閣の殆どの建立年代になっている。そういう意味では、オクナイサマ、オシラサマを祀り始めた年代が大同であったと考えて良いのかもしれない。それは通常「草分けの家」が、その集落に初めて建った家との意味になるのだが、別に新たな文化の草分け、始まりと捉えて良いのではなかろうか。つまり、オクナイサマ、オシラサマという偶像を祀り始めた家の意味にも捉えられる。
「日本書紀(継体天皇記)」では、「女年に當りて績まざること有るときには、天下其の寒を受くること或り。」と記され、継体天皇が天下に養蚕を奨励したのが6世紀初頭であるが、遠野に養蚕が普及し始めたのが大同年間で9世紀初頭となるか。つまり、都で養蚕を奨励し、蝦夷国に普及したのは、やはり坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後という事になるか。養蚕で盛んな群馬県桐生の白滝姫伝説が遠野に伝わって清瀧姫伝説になったように、継体天皇時代から奨励された養蚕が都から関東へ伝わり、そして蝦夷国まで伝わったのが正しい経路であろう。仏教の布教においても、樹木信仰をする人々に対し、その樹木から仏像を彫るという事は、神と仏が同一であるという事として伝わった。オシラサマもまた、霊木であった桑の木からオシラサマという形を彫り上げて神としたのではと想像できる。
また古代の蝦夷の民は、山を霊山と見做して信仰していたが、その山を遥拝する為に神社が建てられたのも坂上田村麻呂以降の事であったから、大同という年号は蝦夷国にとって文明開化の年代であるという事ではないか。その文明開化が及ぼした影響が、神社を建て、オシラサマとオクナイサマを祀り、養蚕が普及した事か。
そして気になるのは、最後の一文「・・・大同の家には必ず畳一帖の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常の事なり。或は誰かに抱起され、叉は室より突き出さるゝこともあり。凡そ静かに眠ることを許さぬなり。」ここには"座敷ワラシ"という言葉が書かれてはいないが、枕返しなどの悪戯は、広く遠野で座敷ワラシの仕業とされている。これはつまり大同家は、座敷ワラシの草分けでもあるという事と共に、座敷ワラシは運ばれて来た文化の一つであった可能性がある。そしてもう一つ気になるのは、大同元年に建立されたという早池峯神社が、何故か座敷ワラシの発祥地という事だ。宮司に聞くと、ここまで宣伝されたのはどこぞの新興宗教と繋がってのものらしいが、その前に地域民に聞くと、境内の杉の大木から座敷ワラシが覗いていたというのが、どうも遠野で一番古い話のようでもある。しかし、大同元年(806年)に建立された早池峰神社とは山頂の奥宮であり、現在地に早池峰山妙泉寺が建立されたのは斎衢年中(854年~857年)で、大同の後であり9世紀の半ば以降となる。となれば、やはり座敷ワラシの一番古い記録は山口部落の大同の家という事になろう。とにかく大同年間とは、蝦夷国に様々な文化が流入し大きく変わった年であるようだ。