
今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞と云
ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の
姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れまる鳥を落しな
どするを佐々木君はよく見せてもらひたり。
昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。
妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩
舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日
に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘
は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、
死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を悪みて斧を以て後より馬
の首を切り落せしに、忽ち娘は其首にたるまゝ天に昇り去れり。
オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて
其神の像を作る。其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を
姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏
の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作り
し妹神の像は今附馬牛村に在りと云へり。
「遠野物語69」

オシラサマ研究は盛んであるが、様々な要素を見せるオシラサマに、これといった決定打が無いのも実情ではある。確かに、遠野だけでなく北関東から東北にかけて広がるオシラサマの話を集めて分析しても、まとまりを欠く。ただ「遠野物語69」の話は、あくまで他のオシラサマの話は関係無く、単独に伝える話であると考える。何故なら、この話は神社などに伝わる縁起に近いものだと思うからだ。
大同年間といえば、岩手県内に多くの神社が建立された年代でもあ。早池峯神社は大同元年となるが、大同二年建立の神社仏閣は星の数ほど散らばっている。この大同年間は岩手県というより蝦夷国の確立された信仰の始まりの年代でもあるのだと考える。そして、この土淵村の大同という家こそ、遠野の信仰の始まり象徴となるだろう。ただ本当に大同元年からの家かは定かでは無いが、名乗るという事は、それだけの意味を有しているという事だろう。
つまり、オシラサマの縁起は大同元年に始まったと解釈しても良いのだろう。これは恐らく、早池峯神社に重複して伝えられるものでは無かっただろうか。何故なら、後半のオシラサマ三姉妹の話はそのまま遠野三山の三女神伝説に対応するのは偶然であろうか?三女神伝説では、末の娘は早池峯に鎮座したが、その早池峯の麓は附馬牛となる。オシラサマの末娘もまた附馬牛に在るという事は、偶然にしては出来過ぎであろう。

また桑の木から三体のオシラサマの像を彫ったとあるが、これは遠野七観音もそうだが、広く神木・霊木か神像・仏像を彫った話は伝わっている。桑の木は、古くは宮中において、お産の際に邪気などを祓う狙いで桑の木で作った弓が使用された。元々桑の木には邪気を祓い、魔を除ける力があると信じられた樹木であった。その桑の木で彫ったオシラサマ像とは、そのまま霊力を持っている像なのであろう。
オシラサマ像は何枚もの着物を重ね着している。毎年、着せ替えるのではなく重ね着だ。つまり、オシラサマそのものは穢れを溜め込む存在であるのだろう。よく"障り"というのを耳にするが、普通であれば穢れを祓うのであれば流し雛のように毎年一度、川に流すだけで穢れを祓う事が出来る。しかしオシラサマ像はいくつもの穢れ纏っても尚霊力を保ち続ける事が出来るのは、桑の木にそれだけの穢祓いの強い霊力があるという事。そして、その前に娘と馬とを贄として奉げている桑の木で彫ったという事も付け加えるべきだろう。

例えば「遠野物語拾遺28(母也明神)」における人柱は、夫婦だけでなく白馬もまた贄とされている。白馬は蒼前様と同じく神馬としての存在でもあり、竜神とも結び付く。まだ明らかではないが古来、呪術の発動には贄を奉げたものだと言う。絵馬もまた本来は、雨乞いなどの呪術に生きている馬を奉げたのが代用として絵馬に変わっただけである。絵馬もまた、古代の贄であった。そして馬の毛並が絹糸に例えられるのは、古くから蚕との結び付きが伝えられていたのだろう。
天降るというと空から降ってくるイメージが現代ではあるが、古代では天は空よりも、天に近い高山であった。「遠野物語拾遺3」での天人児の話は、天から舞い降りるのではなく六角牛山からである。この「遠野物語69」においては、斬り落とされた馬の首と一緒に娘は天へと昇るのだが、オシラサマ伝承の多くは、剥がされた馬の皮に巻かれて天へと昇っている。その馬の皮をそのまま羽衣に置き換えれば、このオシラサマの話は天女の羽衣の話と同じになる。この前に書いたように、馬の毛は絹糸に例えられている。つまり馬の皮、いや馬そのものは蚕の出す絹糸と同じで、それはそのまま天女の羽衣に成り変わる。そして娘が馬と昇り詰める先は、早池峯山であろう。

中国に伝わる「山海経」は秦国から加筆され漢代に成立した奇書と云われる。その「山海経」の扶桑の伝説には、三本足の烏が止る桑の木は太陽の象徴でもあった。
「日本書紀」において軻遇突智を生んだ為にホトを焼かれた伊弉冉が亡くなる直前に生んだ埴山媛は、後に軻遇突智と結ばれ稚産霊を生むが、出産の際に稚産霊の頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたとあるが、蚕は後から付け足したものであると云われている。更に稚産霊は「古事記」で水神でもあり食物神である豊受比売神を生んでいるのを重ね合わせれば、五穀豊穣を意味し太陽の恵みとの結び付きを意味しているのだろう。
オシラサマのその他の信仰を考え合わせれば、それは全て山神に行き着く。何故なら山は、雲を生み風を生み、水を生み出し樹木を生み出し、獣さえも生み出す母なる神である。その山神とは、白山とも結び付きの深い早池峯山であろう。穢れを祓うと信じられていた水の神は「大祓祝詞」で現在も広く全国で唱えられる穢祓神でもある早池峯大神でもある。
早池峯神社大祭において、早池峯大神の御霊を乗せた神輿は、山門を潜る前に駒形社へ寄るというのも、早池峯大神である女神と馬の結び付きの深さを意味するものだ。そして山門を潜り祓川で神輿に水をかけ(現在は、榊などを水に濡れさせ、その水滴を神輿に払う)再び山門を潜り、駒形社へ寄ってから、神輿は本殿へと向かう。つまり、娘+馬=女神+馬でもある。早池峯の女神を民間レベルに落して娘としたのだろう。
ただし蚕や桑の木に関する細かな内容までは、この末端の遠野までは伝わってないだろう。せいぜい桑の木は穢祓の霊木であり、それは先に記した様に遠野の氏神である早池峰大神と結び付くとセットで伝えられたのが、この「遠野物語69」である「オシラサマ縁起」であるのだと考える。