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遠野不思議 第八百九話「南部守行の墓」

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何故か、ずっとこの南部守行の墓へは足を向けていなかった。この墓が真実なのかどうかという真贋も含めて興味が無かったのが正直なところだった。取り敢えず初めて来てみた。

南部 守行(1359~1437)は、三戸南部氏第13代当主であり、しばしば遠野にも出勤したと伝えられる。1437年、大槌孫三郎との戦で流れ矢に当り死んだと云うが、その遺体は遠野の東禅寺まで運ばれ埋葬されたというのが、この場所となる。しかし南部氏は代々火葬をしてきたというが、そうであれば火葬をした後の骨を故郷へと運んで埋葬してもよかったのだろう。何故にこの地に埋葬したのかは、定かでは無い。いや埋葬ではなく塚を作ったのは、一つの南部氏の祈願ではなかったろうか。恐らく掘り起こしても骨は出てこないものだと思える。

この墓は、南部守行の墓を中心に殉死者十二名の墓が左右に配置されている。いわゆる十三塚となっている。殉死者という事は、南部守行を埋葬した後に家臣が後を追って自決したという事になるか。しかし、それは有り得ないだろう。

十三塚としては遠野市小友町に伝わる程度で、有名な将門の七人塚、そしてこの十三塚も仏教思想に則っており、十三仏であろうとされている。西洋では十三という数字は死刑場の階段の数であるという事から不吉の数字になっているが、仏教思想が広く行き渡っている日本での十三は不吉では無い。ただ付随する伝承に不吉なものは確かにある。例えば、1匹の大鼠を退治した時に死んだ猫十二体を大鼠と一緒に埋葬し十三塚とした場合がある。つまり、死んだ悪しき魂を復活させない為に、見張り役として一緒に埋葬した、もしくは祀ったという場合もあるのだろう。

遠野で似た様なものに、山口部落の薬師堂がある。あそこは薬師如来を中心に十二支の動物を頭に載せた十二の仏像が脇を固めている。十二支は十二様でもあり、山の神との繋がりを見せる。山の神が1年で12人の子供を産むとされている為か、それが薬師如来と結び付いて、薬師如来の十二の使徒と考えてもいいだろう。

また妙見神の本地仏として薬師如来が定められている事から、星信仰との関係も深い。宮城県の七つ森は、薬師如来との関係を示すもので、それが遠野の上郷町にある日出神社と結び付いている。大川善男「遠野の社寺由緒孝」が正しいとすれば、東禅寺は天台宗であったろう。その東禅寺の外れに位置した場所にある南部守行の墓は、天台宗の影響があったものと考えるのが普通だろう。

南部守行は老後、剃髪し禅高法師と号したという事から、東禅寺が臨済宗である事と結び付きそうだが、南部家の家紋に双鶴九曜紋を定めたのは南部守行であった。九曜紋は、早池峯神社などの神紋となる妙見信仰と繋がる紋である。形式上は禅師であろう南部守行だが、その背後には星の宗教とも云われる天台宗の影響が見受けられる。星は即ち石であり鉱石でもある事から、始閣藤蔵は金が発見されたら宮を建てますと早池峯山に祈願し、発見後にその通りにした。南部藩もまた鉱山開発を推奨してきた藩であるから、遠野で一番の高山である早池峯を意識していたのは、南部藩の葬方の逸話からも理解できる。蹈鞴の風俗に、死体を傍に置くと金の出来が良くなるという。それ故に金屋子神に死体を奉げるのは、そういう事であると。死体も含め、鼠も猫も、鉱脈への隠語である事から、つまりここでは南部守行の死後の魂を山の神に捧げるという祈願の意味での塚ではなかったろうか。奥州の覇権を握るには、金と馬は不可欠であった。その金鉱脈の発見と開発に力を注いで南部家であった。ましてや南部家当主であれば、その魂の価値は高かったであろう。

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