
以前、「遠野物語拾遺140(程洞稲荷由来)」の記事で、この程洞の地に住み、医療をしてきた宮家の話は書いたが、この程洞に至る事を書いていなかった。
宮家は、最後の男当主であった宮康氏が生前、宮家は阿曽沼氏の一族で、阿曽沼氏没落後、この程洞で密かに暮していたと述べていた。宮氏には元々祖先伝来の系図があったが、明治元年私有財産制度確立に伴う縁故払下げが行われた時、程洞稲荷神社付近の払下げを願い出、系図の写しを他の願書に添えて青森大林区署に出したところ、系図を写しでは無く元本を送れとなり、写しは返されたそうな。されから祖先伝来の系図を送ったところ、不幸にして大林区署の火災と共に焼失してたしまった。
阿曽沼氏として最後の殿様であった阿曽沼広長は、失意のうちに仙台で亡くなったというが、その広長には義政という子供がおり、隼人と称していたという。その後、隼人は倉掘と姓を改め気仙より山を越えて、眼下に鍋倉山の横田城を望む程洞山に密かに住み始めたと云う。いつの日か、再び阿曽沼の復興を願っていたが、いつしかその願いも失せ、道義という人物の代になってから姓を宮と改めて程洞山を下り、六日町に住み、明治に至るまで医者として南部氏に召し抱えられたのだと。ただし別に伝わる話では、弘雲の代に山を下りて新町に移り住んだとされる。「遠野物語拾遺140」に登場する"こうあん様"とは、この弘雲であろうとされる。

また別に、五百羅漢は一般的に飢饉で死んだ人達を供養する為に作られたとされるが、本来は阿曽沼氏の一族を供養する為に自然石に彫られたとの伝説もある。ただ五百羅漢を彫った人物が、怨み深い南部氏の菩提寺であった大慈寺の住職義山和尚である事から、何やら皮肉めいて聞こえる伝説でもある。逆に思えば、南部氏が貶めた阿曽沼氏が怨霊とならぬように五百羅漢が彫られたとしても、辻褄は合うだろう。