
閉伊氏に関係する、尾崎神社がある。その由緒は、どれが正しいという訳では無いが三つある。由緒が三つあるという事は、よくわからない意味でもあるのだろう。伊能嘉矩「遠野くさぐさ(尾崎明神の由緒)」から、その由緒を三つ抜き出して書いてみるが、取り敢えずそのうちの一つは、下記の通りとなる。
【尾崎縁起其の一】
「尾崎明神の御本体は、日本武尊なり。尊が東夷征討の際、身を相総の海中に投じて海神の犠牲となり、風涛を止めたまゐし妃橘媛の尊骸後に漂ひて釜石浦白浜の出崎に着く。里民乃ち之を祀る。依て明神の使者は白鳥なりとて氏子の家之を食はずとぞ。」(弘化年代尾崎明神御縁起)
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景行天皇時代、日本武尊の蝦夷征伐は記紀に記されてはいるが、あれは現在の茨城県辺りで終わっている。東北に来たという事は無かったようだが、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の影響からなのか、いくつかの神社で坂上田村麻呂の代わりに日本武尊を祭神としている。この由緒は、あくまでも古くて尊い神社だという意味を持たせる為の由緒であろう。ただし、上記の由緒を読めば、祭神は日本武尊というより弟橘媛になる筈だが、これはどうした事か。
現在の尾崎神社の由緒にも、この日本武尊説を採用している。それが、次の通り。「尾崎神社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点がこの尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が尾崎神社の起こりであり、御祭神は日本武尊であるとされている。」
弟橘媛の骸が尾崎半島に流れ着いた話が、いつしか日本武尊自身が東征に来た話となっている。これは尾崎神社の御神体が宝剣である事から、日本武尊の持つ天叢雲剣に準ずるものであるという事を示したかったのではないか。「日本書紀」の注釈には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気が掛かっていたため、かく名づけたか」とあるように天叢雲剣は、蛇を意識している。つまり、尾崎神社の御神体である宝剣は、蛇である事を意識して記された由緒であると思われる。弟橘媛の骸が流れ着いたという由緒も、恵比寿信仰を思わせるもの。恵比寿神も本来は蛇神である事から、尾崎半島全体に蛇が纏わりついている様である。

【尾崎縁起其の二】
「閉伊武者頼基、夙に神仏を崇敬し、其の秘伝を仙人より得と称せられ、嘗て曰く、九山の権現八海の明神は、我が日本の守護神なれば、国の守護郡の地頭すべて武家たらん者は、此の神々を其の縁に随ひて信仰すること大切なりと。又、曰へらく、「我領地は海辺にして貢を納るゝに、田畑少ければ唯魚を貢ら備ふ。されば明神を深く祈らん。」と。年月良く久しく鹿島への参詣怠らず、深く信心の丹誠を払いひたまふ。鹿島にても神の告多く、神々も不思議を示しける。其の居住の庭に藤を植え色を交へ愛したり。蓋し鹿島明神深く藤を惜みたまふといふに因めるなり。
承久二年の春頃より頼基不例なり。乃ち重臣等を内席に召して遺言すらく、「吾れ鹿島明神の霊を崇敬し、心中に大願あり。今其の成就の期ならん。吾は誓を立てゝ海上守護の神となるべし。吾れ死なば陸地に葬ること勿れ。抑々日本の地形東南北の礒に於て釜石の浦尾崎ならでは長き崎なし。依りて藤布の装束を以て骸に着け、棺槨を此の崎の海中に納め、其処を廟所と仰ぐべし。植え置きし藤をば永く吾れと思ふやう子孫に告げよ。」と。終に同年九月二十八日未の刻に没したまふ。家族里民涙ながらに仰に随て亡骸を尾崎の海中に葬り奉る。夫より家臣居城に帰りて断食をなし中陰を送り、後釜石尾崎明神と祭り、海上安全の守護を祈りけり。
道俗男女釜石の湊より参詣の輩船にて渡航す。重臣七人あり。中陰の内断食日々重り終に即ち死す。里民共其の所の氏神に祈る。之を閉伊七社と号す。
頼基の子出羽守家朝、承久三年六月十五日自ら生害す。是れ即ち田ノ浜尾崎明神なり。(嘉永四年尾崎大明神縁起)
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尾崎明神の由緒のもう一つには唐突に、鹿島明神が登場している。現在の鹿島神宮の祭神は武甕槌となっていて、それが広く浸透している。武甕槌は、出雲の国譲り神話に登場する他、天津甕星の退治にも登場している武神のイメージが強い。それが武甕槌を称し"九山の権現八海の明神は、我が日本の守護神なれば"というには、そのイメージが結び付かない。だが以前「鉄の蛇」で調べた様に、本来の鹿島の神は花房社に祀られる竜蛇神であった。それは、二荒山との関係が深い竜蛇神でもある。山と海にまたがる神が竜蛇神であれば、それは理解できる事である。つまり、この縁起には、鹿島の神が、どういう神であるか記されているという事となる。
民俗学を齧っている人なら気付くだろうが、水や水神に関係の深いものに"藤"が常に登場する。それは地名であったり、氏名であったりだ。例えば。中臣不比等は元々火神を祀っていたのを、途中から水神に変更したという逸話がある。それに伴って、中臣姓から藤原姓に変更したのだろうか?となれば、鹿島神宮の花房社の花とは、藤の花であろうか?
気になるのは、閉伊頼基が死んだ月日である。この縁起によれば、9月28日とされているが、この8月28日とは、不動明王の縁日でもあり、竜蛇神でもある水神の縁日でもある。恐らく竜蛇神の意識が強いからこそ、亡骸を海中に葬ったとしたのだろう。ただ現在の尾崎神社の由緒には「亡骸は尾崎の宝剣の傍らに葬れ」との遺言」とある。宝剣の傍らとは尾崎神社奥ノ院の事であろうか、それとも尾崎半島の突出した奥ノ院傍の海中の事であろうか?どちらにしろ、龍蛇神を深く意識した由緒であろう。そして由緒は、もう一つある。