
田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、田村圓澄は疑問を呈している。神功皇后時代以降から天武天皇時代前までは、伊勢大神と日神の名称が登場するが、天照大神という名称は登場しなかった。しかし天武天皇時代の初年に突如、天照大神の名称が二か所登場するのだが、その後は伊勢大神の名称が続くのには意図的に天照大神の名称が使われたのではないのかと。ただ、大海人皇子に従って吉野を出発した舎人の一人である安斗智徳の日記にも「廿六日辰時。於朝明郡迹大川上而拝礼天照大神」とある事から、天照大神を遥拝したのは信憑性は高いと云われる。
丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の邊にして、天照太神を望拜みたまふ。
天武天皇が遥拝した天照大神はこの時、滝原の地に祀られていた。神武天皇は太陽を背にする事によって戦に勝利する事が出来た。この時の天武天皇も、その太陽である天照大神を望んだ事によって壬申の乱の勝利を祈願したのだろうという意見が殆どである。では、その滝原という地は、どういうところであろうか。猿田彦神社購本部「神宮摂末社巡拝」によれば「滝原といふものは、この大内山川や頓登川に沿ふて大瀧、雄瀧、雌瀧などいふ瀧が四十八もあり、その間を縫ふた原野の地勢をそのまゝ名としたものである。」と説明している。遠野にも、藤沢の滝群というものがあり、その滝群の手前に応瀧神社が鎮座しており、那智の瀧神が祀られている。その藤沢の瀧もまた四十八瀧であり、全国に四十八瀧という名称の殆どが、熊野の四十八瀧からの影響を受けているのは言うまでもない。その滝原の地に祀られる神社の殆どは水神系神社であり、僅かに御饌都系神社が祀られているばかりだ。つまり滝原という地は、その名の通り水の溢れる聖地であるのが理解できるが、天照大神の性質である太陽信仰を見出せない地でもある。そしてその前に、この滝原の地は既に熊野の影響を受けた地では無いかと思われるのであった。
「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを言葉に表している。
「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜し國なり。是の國に居らむと欲ふ」とのたまふ。
この後に、この伊勢国に祠を建てるのだが、それが滝原の地であるのは言うまでもない。ここで気にしなければならないのは、常世信仰とは熊野から始まったものであるという事。後に補陀落とも呼ぶようになったが、要は黄泉国、死の国の入り口が熊野であるという事だ。死といえば不吉なイメージが纏わりつくが、古代では太陽は毎日東から生れ、西に沈み死ぬと思われていた。つまり死とは生との連続性の中にあるものであり、それを陰陽五行に当て嵌まれば陰となる。太陽の昇る東は陽であり、それが沈む方向は陰となる。天照大神の荒魂の異称に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名があるが、この神名の「天疎向津」とは、東から離れて西へと向かう月を意味している。その西である死の地がまさに熊野であり、この熊野の地こそ、天照大神荒魂にふさわしい地ではなかろうか。

西国三十三所観音霊場の第一番札所である青岸渡寺の御詠歌がある。
補陀落や 岸うつ波は三熊野の 那智のお山に ひびく滝つ瀬
補陀落であり常世の波の音とは、那智の滝音でもある意味になる御詠歌であるが、垂仁記の天照大神の言葉は、まさに伊勢国には那智の滝音が響く地であるという意味合いにも取れる。その滝原の地は熊野の四十八瀧と同じものがあるのはつまり、那智の滝と同じものがあると考えて良いのではないか。だからこそ、天照大神はここに斎くと言ったのは、それは天照大神ではなく、水神である天照大神の荒魂の言葉では無かっただろうか。垂仁記の「常世の波」とは、熊野からの波が押し寄せるもの。つまり、那智の滝音が響く地であると考えるのが妥当であろう。

室根山に勧請された瀬織津比咩は、熊野本宮神であるとされている。その熊野本宮だが、現在の本宮の地では無く、旧社地の大斎原とは「水霊の斎く霊地」の意であり、古くは大湯原と表記され、それは「聖水によって清められた聖地」との意であった。それは、熊野川の奥に坐す地主神である水神であったとされている。また、平安中期の仏教説話集である「三宝絵詞」には、その熊野川の奥に坐す神が熊野の「本神」と記され、それが熊野坐神であった。つまり熊野本宮神の本来が、水神を祀っていたのは疑いの無いものである。
それでは、その熊野川の奥には何があるかといえば、そこに鎮座するのは天河神社。菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」で、その天河神社が紐解かれている。天河神社の本来の祭神は「天照大神別体不二之御神」。つまり、天照大神荒魂とされる天河神社に祀られるこの神が、熊野本宮神、熊野坐神であったという事になる。
「エミシの国の女神」の著者である故風琳堂氏は、この天河神社の結びをこう書いている。「弁財天と習合する神を「地神」の位相で透視するなら、この位相は、そのまま熊野へ、そして伊勢へ、また白山へと、もう一つの祭祀の地肌を共有しているといえようだ。」この時点で、この位相は想定されるものの、決定的証拠が無く、まだ確信に到って無いようでもあった。しかし、こうして一つ一つ積みかせね検討していくと、その地神の位相が数珠繋ぎとなり広がって行き、一柱の神に帰結していく。この小さな発見を、風琳堂氏が生きているうちに報告出来なかった事が残念である。
田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、こう訴えている。672年(天武元年)の時点で大海人皇子が望拝したのは「天照大神」ではなく、滝原に祀られる「伊勢大神」ではなかったか、と。神武天皇は、熊野において軍勢を立て直す事の出来た地である。また、それに倣ってか、神功皇后もまた応神天皇を連れて熊野の地へと向かった。何故なら、その熊野の神とは「破軍星」に等しい神であった為だ。だからこそ、その神の力を持て余した崇神天皇はその神を手元から切り離し、先鋒として各地の武力制圧へと連れまわした。その果てに祀ったのが滝原の地であった。そして天武天皇もまた壬申の乱の勝利を祈願して、滝原の地に祀られる「伊勢大神」を望拝したのだろう。その伊勢大神は天照大神ではなく、滝原の地に祀られた伊勢大神である天照大神荒御魂である瀬織津比咩であった。歴代の天皇が頼ったその神威を信じたからこそ、天武天皇は望拝したのだ。天照大神の荒御魂、その神はその遥遠くの早池峯にも、その地域を平らげる為に祀られたのだろう。滝原の地は、別に遥宮(とおのみや)と呼ばれる。その更なる遥か遠い遥宮(とおのみや)が、現在の遠野市であり、その地に聳える早池峯ではなかろうか。
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こうして遠野の氏神様である瀬織津比咩について調べて書き連ねるのだが、その過程で新たな発見をした時に、以前はそれを聞いてくれる風琳堂氏がいた。風琳堂氏が死ぬ1か月前に電話で、こういう新たな発見をしたと報告し、それを喜んでくれた風琳堂氏の声が思い浮かばれる。今となって、瀬織津比咩を語れる相手が全くいなくなった事を痛感する毎日が続く。今更ながら、風琳堂氏の死を痛ましく思う自分がいたのだった。