
「古事記」の仲哀天皇記では、仲哀天皇の不慮の死の後に”国の大祓”の記述がある。その内容は、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」とほぼ同じである。「大祓祝詞」といえば、その舞台背景が琵琶湖周辺の地名に近似しているのだが、「日本書紀(神功皇后記)」で忍熊王を討つ舞台が、淡海である琵琶湖周辺となっている。忍熊王は敗戦の中、船に乗ったとされるのが瀬田であったようだ。そこで忍熊王は、五十狭茅宿禰と共に入水して果てたとされる。その時の歌がある。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が
頭槌の 痛手負はずは鳰鳥の 潜せな
上記は「日本書紀」だが、「古事記」では下記のようになる。
いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ
梅原教授は「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、それは意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした。忍熊王が琵琶湖に追い詰められ入水する時、家来の五十狭茅宿禰対しての歌が「吾君(わがきみ)」ではなく「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなったようだ。
ところで「吾君(アギ)」がアイヌ語だとすれば、仲哀天皇の正当な血筋である忍熊王がアイヌ語の「アギ」を使用したとは考え辛い。仲哀天皇の父はヤマトタケルであり、その父は景行天皇だ。景行天皇時代、武内宿禰の蝦夷の報告は、蝦夷を討ってしまえという程、蔑んだ酷いものであった。その景行天皇のヤマトタケルは蝦夷征伐へと赴き、そして果てる。その息子である仲哀天皇が息子である忍熊王に対して、アイヌ語を教え伝えるだろうか?確かに景行天皇自体日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じたと記述しているが、その景行天皇の時代から仲哀天皇の時代の間に、アイヌ語だとする「吾君(アギ)」の言葉が自然に口から出るとは考え辛いのだ。
柿本人麻呂が、淡海を詠った歌がある。
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ
ささなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも
古田武彦「古代は輝いている」において、この歌は忍熊王の事件を詠ったものだとしている。実は、この柿本人麻呂の歌は、壬申の乱によって廃墟になったものを詠ったものとされていた。しかし、壬申の乱での大友皇子は山前で自決したのだが、柿本人麻呂の想いは、湖上と湖底へと向けられている。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほ
後藤幸彦「神功皇后は実在した」では、この柿本人麻呂の歌の「いにしえ」とは、やはり忍熊王の悲劇を想っての歌であろうとしている。「日本書紀」では、武内宿禰が瀬田の水に沈んだであろうその忍熊王の死体を探したところ、宇治で見つかったとある。その歌は下記の通りとなる。
淡海の海 瀬田の済に潜く鳥田上過ぎて兎路河に出づ
そして重なるのが、柿本人麻呂の歌。
もののふの八十氏河網代木にいさよふ波の行く方知らずも
網代木とは、魚を捕る為に両岸などに打ち込む仕掛けの網の杭であるらしく、まさに瀬田で入水し死んだ忍熊王が、宇治川で見つかったものが、網にかかった魚の様に表現されているようにも思える。この柿本人麻呂の歌は「もののふの八十」と「氏河」を分けて解釈される場合が殆どだ。しかし「もののふ」と「八十氏河」と分けて考える事も可能であろう。「もののふ」は戦で負けた忍熊王だとして、その死体が宇治川で見つかった。
宇治の橋姫神社に祀られる神は、琵琶湖畔の佐久奈度神社から勧請され、「大祓祝詞」の中心となる瀬織津比咩である。佐久奈度神社は、黄泉に引き込まれるという伝承のある桜谷に祀られていた桜谷明神であった瀬織津比咩を勧請したものであった。その別名を八十禍津日神と云い、やはり水による穢祓の神である。「八十宇治」とした場合、宇治がそのまま祓処としての機能を持つ事から「八十宇治」とはその死体の穢を祓う意味としても考えられる。これを強引に感じる人もいるだろうが、考えて見て欲しい。この忍熊王の死んだ舞台に見え隠れする神とは、瀬織津比咩ではないか。
瀬田は、佐久奈谷と並んで黄泉へ引き込まれるという伝承の地であり、七瀬の祓い所である。そして、俵藤太の逸話から竜宮への入り口でもある滝へと導くところ。それを導いた正体は白竜であった。この「日本書紀(神功皇后記)」の中の忍熊王の死への流れは、まさに「大祓祝詞」のそれであり。瀬織津比咩の掌の上での出来事であるようだ。
国家として「大祓」を採用したのは、天武天皇であった。それを踏まえれば、この「日本書紀(神功皇后記)」内の、仲哀天皇の「大祓」とアイヌ語の「アギ」はあからさまに時代のズレを感じ、それはもしかして、この「神功皇后記」を記させたのは天武天皇では無いかとの想定が成される。次は、天武天皇が恐れたであろう、荒御魂について書く事とする。