
「日本書紀(神功皇后記)」を読むと天照大神が登場し「我が荒魂をば皇后に近くべからず、当に御心を廣田國に居らしむべし」という記述がある。どういう意味かと注釈を読むと「住吉三神や天照大神の荒魂は皇后の乗る船上にあって征船を導くとある。いま、その荒魂を皇后のみもとから離して広田の地にまつるのであろう。」と記されている。これは「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。「住吉大社神代記」でもほぼ同じ事が記されているが、その注釈に「荒魂は現魂の意があり、外に進み現れ出て神威を顕現する魂なり。」と説明されている。確かに、椿大神社に合祀されている石神社に伝わる「石神社略縁起并古書」では、倭姫命が、この霊巖は太神宮荒魂を奉斎し"石太神"と唱え、暫くした後に天照大神も影向したとあるから、どうやら天照大神の荒魂は、先導神のようでもある。先んじて、戦も含めその場の穢祓をする存在であると考えて良いだろう。実際にその後の文に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし」とある事から、まさに戦の先人に立ち、神威を持って敵を威圧する為の荒魂か。この「日本書紀(神功皇后)」では、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と住吉三神の荒魂も登場しているが、その荒魂は穴門の山田邑に祭はしめよとされた事から、住吉三神の荒魂は航海の守護としてのものだろう。つまり戦船の船首に祀られた戦の先鋒神は、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。
ここで思い出すのが「室根神社縁起」だ。今から20年程前に「エミシの国の女神」の著者であった風琳堂氏が「熊野から最強の神が、室根山に運ばれてきたんだよ!それが瀬織津比咩なんだ!」と、興奮気味に話していた事を思い出してしまう。水神と思っていた瀬織津比咩が、最強の神であるとはどういう事だ?と思っていた。その室根神社縁起では、甚だ強力乱暴な東夷の征討の為、神明の霊威の加護に頼らんとし、霊験あらたかなる熊野神の勧請するのを決心し、当時の天皇であった元正天皇に奉請したとある。しかし、熊野神である瀬織津比咩が荒ぶる戦神という記録はまず無いだろう。恐らく、それを証明する唯一の記録が、「日本書紀(神功皇后記)」「住吉大社神代記」に記された天照大神の荒魂の記述になるのではなかろうか。
しかし、先に紹介した注釈では何故、神功皇后に天照大神の荒御魂を近づけてはならないのかの理由にはなっていない。ただ、征船を導くとは「戦の船」を意味するのであろうから、戦の荒ぶる神として荒魂があるのだろうか。仲哀天皇を祟った神で真っ先に名前が呼ばれたのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、天照大神の荒魂であると。その荒魂の名を一般的に「皇大神の御許を疎らせ御在坐て、遥かに向ひ居たまう義」という解釈が成されている。またこの荒魂の神名に使用されている「疎」は「荒い」という意味もある事から、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、戦神であり祟り神としての位置付けとなるか。いやそれよりも、祟り神としての撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に長く接するのは良くないという意であったろうか。
全国各地に伝承されている民俗芸能を調べると、あらゆる災害の根源になると信じられた荒魂を鎮める為のものが殆どだ。その荒魂は大抵の場合水神である竜蛇神とされ、また山神でもあり、その宗教的本質は祖霊神であるとされている。天照大神の荒魂は、荒祭宮に祀られる瀬織津比咩であり、その異称が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命となる水神である。「天疎」は、西へと向かう月を意味する。つまり、太陽の意がある東から離れ西へと向かう義が”天疎”であるなら、学者が一般的に解釈した「遥かに向ひ居たまう義」は、天照大神から離して荒魂を祀るべしとなろうか。ここに天照大神が、いや…天照大神を祀る者達にとって、その荒魂を恐れる意識を感じるのは自分だけであろうか?
「住吉大社神代記」や「日本書紀(神功皇后記)」での主役は神功皇后であり、住吉三神となっており、世の学者達も、それを中心的に取り扱い研究している。例えば、仲哀天皇を祟り殺した神はと問い、真っ先に登場したのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であったが、最後に登場した住吉三神を重視している風潮がある。これは武内宿禰が何度か「亦有すや」と問いて、意図的に最後の住吉三神を呼び出したのだろうとされている。また「住吉大社神代記」では仲哀天皇の崩御した後の記述が「是に皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)」と書かれたものだから、皇后と住吉三神の関係はただならぬものとされた。しかし最初に書き記した様に、わざわざ天照大神が登場し、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を皇后に近付けるなと言葉の真相が、やはり気になる。
「日本書紀(神功皇后記)」には別伝も紹介しており、ここでは仲哀天皇を祟った神として真っ先に登場した神が住吉三神であり、その次に登場した神が「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつおもそはふいつのみたまはやさのぼりのみこと)」という聞きなれない神であった。本文の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に対比させるように登場した神だとされるが、正しいかどうかはさて置いて、この神の正体は注釈に書いてあり、大野晋氏の説によれば、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊は「向ひ津をも押し覆ふ」であろうとしている。河村哲夫「神功皇后の謎を解く」ではそれを、香椎宮の鬼門の方角である向津国を意味し、その要約は「鬼門の方角である向津で死ね」という意味であろうとしている。これはつまり、仲哀天皇を殺すという暗示をした神であり、実際はその通りに仲哀天皇は死んでしまった。理解は出来るが、この説には若干の違和感がある。何故ならそれは、香椎宮を拠点として考えているからだ。

「向津」とは、確かに向津国かもしれないが、津は港の意でもある事から、対岸の港の意味とも取れる。仲哀天皇は、熊襲平定の為穴戸豊浦宮に七年間政務を執っていた地であり、そこには現在、和布刈神事という秘祭がある忌宮神社がある。その海を隔てた対岸の福岡県には香椎宮もあるのだが、忌宮神社の向津には、やはり同じ和布刈神事が伝わる和布刈神社がある。今でこそ和布刈神社の和布刈神事は公開されてはいるが、以前は秘祭の為に密かに執り行われていたらしい。しかし、同じく対岸の忌宮神社では、今でも秘祭となっているようだ。その和布刈神社と海を隔てた忌宮神社を上空からの地図で見た場合、半島同士が交わり融合するようにも見え、まるで陰陽の和合を示す太極図のようにも思える。忌宮神社の地には仲哀天皇が拠点としていた。では和布刈神社の祭神はというと「和布刈神社志」によれば、第一殿に祀られる神は比売大神であり、「宗形坐三女神也 宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同躰ニ而天照大神之御荒魂三女神也 賊敵降伏之神ニシテ玉依姫ト奉称」とあり、つまり仲哀天皇の向津に鎮座しているのは、仲哀天皇を祟り殺した撞賢木厳之御魂天疎向津媛命だという事。和布刈神事に関しては、別記事で詳しく書いたのでここでは述べようとは思わないが、この忌宮神社の位置と、和布刈神社の位置は、何等かの意味があると思って良いのだろう。そして、「日本書紀(神功皇后記)」には、もう一つ気になる箇所がある。これは、次の機会にする事としよう。