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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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「遠野物語拾遺90(怪異の判断)」

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同じ綾織村の字大久保、沢某という家にも蔵ボッコが居て、時々糸車をまわす音などがしたという。

                                                     「遠野物語拾遺90」
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これは、あくまで蔵ボッコがいるという前提で語られている話である。姿を見たわけでは無く、あくまで糸車を回す音がするので、恐らく蔵ボッコだろうという事であろう。蔵ボッコとされている事から、この沢某という家は裕福であったのだと思う。

ところで昭和の時代であるが、青笹町の某所に稲荷の祠での話である。その祠に何故か古いミシンが入っているのだが、そのミシンが夜中の1時頃になるとカタカタと動き出し、それと一緒に女性の低い声が聞こえるのだという。誰か居るのかと思い中を覗いても誰もいないそうで、その音を聞いた者は何人もいるという事である。昭和の時代になると、糸車などは無くなり、洋服は買うものとなっていた。せいぜい毛糸玉を買って、自分で手編みのものを作るか、裁断した布をミシンで縫う時代となっていた。しかしそれも平成の時代になると、ミシンもまた旧時代の遺物と化してしまい、今ではミシンを持っている家も、殆ど無くなってしまったのではなかろうか。

「遠野物語拾遺90」で糸車を回すのは蔵ボッコの仕業となっているが、稲荷の祠でミシンを動かすのは、誰の仕業であろうか?家の中の怪異の大抵は、座敷ワラシ、蔵ボッコなどの仕業にされるが、稲荷の祠は家の様で、家では無い。また女の低い声が聞こえるというが、それが大人の声なのか、子供の声なのかははっきりしない。では、幽霊の仕業となるのか?となれば、沢某の家で糸車を回したのも、また幽霊の仕業となってしまいそうだ。誰もいない筈の場所での怪異を判断するのは、あくまで人間の考えによるものとなってしまう。となれば狐の仕業と捉えても、何等違和感が無くなってしまう。しかし、糸車を回す音も、ミシンが動く音も確実にあったという事。その怪異が、人の住む家なのか、人の住まない家なのかで、その正体が分類されてしまうようだ。しかし、付喪神となれば、それは物そのものに取り憑くものであろうから、人が住もうが住まなかろうが関係無くなってしまう。

例えば昔、山口部落で寝ていると、外から女の歌声らしきが聞こえて恐ろしかったという話がある。山口とは山の入り口の意味で、山口部落から峠を越えて沿岸へと向かう旅人も多かったようだ。急ぎの旅人は、満月の明るい晩などは夜であろうが、その峠を越えたという。ただ、夜の山であるから何が出て来るかわからない為、その恐怖を忘れる為に、歌を歌いながら峠を越えたという。立場が変われば、その女の歌声の取り方が違ってしまうのは仕方のない事である。

ある事象を怪異と感じるかどうかは、その人の判断になるものであり、その怪異の正体の判断もまた、人の判断でしかないだろう。それは、その土地と家を含む場所と、その時代の流れも影響するだろう。今の時代であれば、夜中にPCのキーボードを誰かが勝手に打ち込んでいるという怪異が発生するのだろうか。そしてそれも蔵ボッコの仕業と為れば、蔵ボッコも時代に合わせて進化したという事になるのであろうか。

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