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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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神在月トイウモノ

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早池峯山頂の手前に、賽の河原と呼ばれる場所がある。親に先立って死んだ子供が、賽の河原で石を積む伝承が定番として広く全国に伝わるが、元々は山城国の鴨川と桂川の合流点の佐比河原で葬送が行われた事と塞ノ神が結び付いて作られた伝承でもある。しかし早池峯の賽の河原は本来「神々の集う場所」としてあったようだ。神々が集うと云えば、出雲が思い出される。10月は神無月で出雲に神々が集まる為に、他の地域では神無月だが、出雲では神在月となるという言い伝えが、古くから広まっていた。

伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、遠野の山神に関する伝説の一つが紹介されている。

婦人安産の後、先きに迎ひし山神を送りて、塞ノ神の鎮座する境土にまで到れば、此の時塞ノ神は山神を迎ひて問ふらく。

山神問ふ。

「女児なり。」

塞ノ神問ふ。

「如何なる女児か。」

山神答あること云々す。塞ノ神重ねて曰く。

「先きつ頃何の地何の処に一男生るる云々。此の児即ち其の女児の配偶者として好適せん。」

山神乃ち同意し、或は否認す。斯くて其の同意あるときには、此の男女児の上に未来の夫婦の縁結ばれたるにて偕老の契り固きも、若し然らざる者の結縁は必ず中ごろ破鏡の難ありと。今も結婚の媒介者を呼びて「サイノカミ」といふこと之に出づとかや。

出雲大社は縁結びの神として広く全国に知られている。この遠野からも、わざわざ出雲大社まで赴き結婚式を挙げた者もいる程だ。ところが、この出雲の縁結び信仰は、出雲大社では無く、出雲路神の信仰から始まったという。その出雲路の神とは、京都の出雲路京極に祀られていた道祖神の事であった。

この道祖神は現在幸神社としてあり、祭神は猿田彦となる。道祖神は元々塞ノ神から始まり、この塞ノ神は「船戸神(ふなどのかみ)」「岐神(ふなどのかみ)」「来名戸祖神(くなどのさえのかみ)」「塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)」などとも書き表される。塞ノ神は「さいのかみ」「さえのかみ」とも読み、遠野では妻という漢字をあてて妻ノ神ともしている。この塞ノ神、要は路上の神であり、悪いものに対して「勿来(くな)」「勿経(ふな)」と防ぎ退ける神であった。そして後に、古代中国に伝わる旅の神であった道祖神と結び付き、今では道祖神の方が一般的になっている。ところが旅を続ける傀儡子や白拍子などが道祖神を信仰するようになり、その傀儡子や白拍子が一夜妻として男と結び付いた事から、いつしか道祖神は男女の縁結びの神ともなったようである。

ところがだ、その出雲において佐太神社の祭神が猿田彦となってややこしくなっている。神々は出雲に集まるのは古代からの伝承であるが、詳しくは最終的に七つの神社を経由して神々が移動したという事だ。その中には出雲大社と並んで佐太神社が含まれている。しかし、14世紀には出雲大社の名前が消え、佐太神社へ神々が集うと広まったようだが、15世紀頃からは再び出雲大社に神々が集うと改められたようである。それが現在まで続いているのだが、その佐太神社を広めたのは熊野の歩き巫女ではないかとも云われている。何故かといえば、佐太神社の祭神を見ると、ほぼ紀州熊野の神である事が理解できる筈だ。紀州熊野は本殿が三座で、祭神が十二座となっているが、出雲の佐太神社も同じになっている。佐太神社の正殿には、伊弉諾、伊邪那美、事解男、速玉男ならびに秘説一座としている。この秘説一座を佐田大神として、猿田彦が結び付いている為に、佐太大神=道祖神とされているようだ。それ故、出雲に神々が集い、男女の縁を決めていると伝えられている。

先に紹介した遠野の伝承で、山神と塞ノ神が男女の縁を結んでいるのは、まさに出雲の神々の集いであり、早池峯はまさに神在月の場でもあったか。菊池照雄「山深き遠野の物語せよ」において、菊池氏もまた熊野の歩き巫女の存在を示している。熊野の歩き巫女は、熊野神と縁深い地を目指し、その途中で熊野信仰を広めて回ったという。その一つが、菊池氏が述べる傀儡坂の伝承で、早池峯に縁のある熊野の歩き巫女でもあった。つまり、早池峯の神々の集う地という伝承は、13世紀以前となるのだろうか。熊野から歩いてくるなど今では途方も無い様に思えるが「延喜式」によれば、都から陸奥国まで二十四日と規定されている。これが陸奥国の入り口であるならば、おおよそ熊野から遠野の早池峯ので一か月を要して歩き巫女は来たのだと思える。以前泊まった事のある、日本縦断をした者に聞くと、一日の限界がだいたい40キロから50キロだという。これを一か月に換算すれば、約1200キロ~1500キロを歩くという事になるので、一か月で熊野から遠野へ歩く事は出来るのだろう。ただし、早池峯山頂手前の神々の集う場所を決めたのは熊野系修験者であろう。何故なら、早池峯そのものは当時女人禁制であった筈。細かな場所を歩き巫女が設定できる筈も無く、それは男である修験者であったのだろう。熊野では男の修験者を狼と呼び、巫女を兎と呼んだ。早池峯に伝わる狼の伝承もまた、熊野修験によるものであったろうか。その熊野から室根山に運ばれ祀られた神が、早池峯と同じ神であるというのは、熊野の影響を受けている佐太神社の祭神である秘説一座もまた気になるところではある。何故なら、塞ノ神=岐神と荒覇吐(アラハバキ)神は同一視されているからだ。伊勢神宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂=瀬織津比咩は、アラハバキ姫とも呼ばれる。その伊勢神宮の本来の太陽神は猿田彦では無いかとも云われる。また三重一之宮の椿大社には猿田彦が祀られているが、その椿大社に合祀された石神社には天照大神荒魂が祀られている。佐太大神が猿田彦とも云われるが、出雲の佐太神社を含めて熊野との繋がりから、早池峯の信仰もまた複雑怪奇ではある。ただ言えるのは、神在月と呼ばれる地は他にもあり、それは二荒山であり、熊野であり、諏訪であると云われる。共通するのは蛇神を祀るという事だろう。当然それは、出雲大社の神事とも関わるが、全ては蛇神を呼ぶ信仰と神在月が重なるという事ではなかろうか。ちなみに、神社に飾られる注連縄とは蛇が交尾で交わっている姿を模していると云う。つまり注連縄を潜るという事は、男女の縁結びとも結びつく。その根底は、蛇の陰陽の結び付きから来ているのかもしれない。

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