
ムクドリはこの時期、田起しなどをすると虫が表面に出たりするので、集団で虫を食べに来たりする。桜の時期になると、たまに桜の咲きが悪い時は、桜の蕾がカラスに食われたから。いやいや、ムクドリに食われたなどの話を聞く事がある。
ムクドリは「椋鳥」とも記すのだが、その語源は曖昧で、椋木の実を群れで食むから。椋木に棲むから。群木鳥(むれきどり)の転訛。もしくは群来鳥(むくどり)か?もしや、ムクんだ鳥の義など、さっぱり要領を得ない。では椋とは何かとなれば、椋木も椋鳥も、そのどちらの略も「椋」と表すらしい。それでは「椋木」を調べると、椋木の葉はザラザラしており「木工葉(むくば)」と呼ばれ、その葉で木材を磨いたから。ムクは「剥く(むく)」か?あるいは「茂く(もく)」で茂る意か?樹実の意で、ホコと同意か?実黒の義か?などと、椋木の語源も定かでは無いようだ。
また「古事記」にも椋木が登場している。須勢理毘売が大穴牟遅命を連れて根の国から脱出する際「その妻むくの木の実と赤土とを取りてその夫に授けき。」とある。その注釈は「椋。楡科の落葉高木で、実の赤紫色の汁は、蜈蚣の色に似る。「ムカデ」は「ムク」に発音が近い。」としている。
ところで上記の説の中にホコ説があるが、椋は古くからクラ、もしくはムホコという字に用いられていたそうだ。クラであるなら神座ムホコすなわち神の矛であり杖を意味する。世阿弥の作品に「守屋」がある。この作品では、物部守屋に追われた聖徳太子が椋の大木に隠れて難を逃れる場面がある。物部との戦に勝利した後に建立した寺が「椋樹山大聖勝軍寺」だという。物部守屋から守り、そして倒したのがまさに椋木であり、神の座であり、神の矛であったのかもしれない。

ところで聖徳太子を隠した椋木だが、牧野和春「樹木詣で」には「椋本の大ムク」が紹介されている。この大椋の逸話は、坂上田村麻呂の家来である野添大膳が京の都を追われ放浪の末に、この椋木に辿り着いて住んだところ、次々に人がこの椋木の周辺に移り住んで、小さな集落が出来たと云う。そしてなるほど、これ程の大木になるのであれば、聖徳太子が隠れたのも納得するのである。
時代が変わって江戸時代には、信濃国から多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、その労働者達を暗喩で「椋鳥」と呼び「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれたと云う。俳人である小林一茶は、やはり信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」と詠んでいる。椋木の大木には、多くの人が集まり、そしてその実には、多くの椋鳥が集まる。椋鳥も椋木も語源説は様々あるが、群れをなして行動する椋鳥を見ていれば、木偏に「京」と書いて「椋」と呼ぶのであるならば、京の都を目指して多くの人が集まる様は、まさしく「樹木の京」もまた、多くのものが集まる意でもあるような気がする。

ムクドリは、いつも群れて行動する鳥である。
