
勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」によれば、「サキ(先)」という言葉は過去を意味していたとする。
「日本の古代・中世社会においては、人々は未来(アト・跡・後)に背を向ける姿勢をとり、過去(サキ・前・先)と向き合い、過去から現在にいたる道を見据え、未来に向かって、後ずさりしているという歴史認識を持っていた。」
未来に背に向けるとは、ピンとは来ないが「続日本記(養老6年7月)」の条では、民衆を誑かす未来予知のような言葉などを禁じている。
「近在京の僧尼、浅識軽智を以て、罪福の因果を巧みに説き、戒律を練らずして、都裏の衆庶を詐り誘る。内に聖教を黷し、外に皇猷を虧けり。遂に人の妻子をして剃髪刻膚せしめ、動れば仏法と称して、輙く室家を離れしむ。網紀に徴ること無く、親夫を顧みず。或は経を負ひ鉢を奉げて、街衢の間に乞食し、或は偽りて邪説を誦して、村邑の中に寄落し、聚宿を常として、妖訛群を成せり。初めは修道に似て、終には姧乱を挟めり。永くその弊を言ふに、特に禁断すべし。」
これはある意味、現代の新興宗教の様なものを禁じているのだが、それは結局、国家の導きを否定するものだから、当然と言えば当然か。確かに歴史を振り返れば、新たな宗派は弾圧されていた事実はある。正しい事であれ間違った事であれ、国策を否定する発言や占いなどは禁止せざる負えなかったのだろう。そして更に、国家は神々が創造してきたものであった。それ故未来とは神の領域であった為、一人の人間が語るべき事では無かったのだと思う。
そしてサキである過去と向き合うとは、神々の軌跡を振り返る事なのだろう。人が神々に対して、どう向き合い対処して来たか。それが間違っていたならば、それを修正する為にサキを見たのだろうか。
「サキ」という言葉で、直ぐに脳裏を過ったのは「オミサキ様」という言葉だった。オミサキ様は先導の神でもある八咫烏を意味する。神話的には神武天皇を導いて救ったとのイメージがあるが、それがミサキであるならば、八咫烏は神武天皇を未来では無く、過去に導いたのであろうか?また、古代からあった鳥葬は、自然放置型の葬儀法ではあるが、具体的には死体に付着した肉をを鳥が啄み白骨化を助長させるものであった。空を飛ぶ鳥は、天と繋がるものであり、人間の魂を運ぶ存在として信じられてきた。それ故に啄まれた肉体は鳥によって天へと運ばれると思われた。その鳥の殆どは烏であり、烏こそが人の魂を運び導くオミサキ様でもあった。不吉な鳴き声の烏は忌み嫌われた存在でもあったが、時には農事とも結びついて、烏に対して餅を投げ与える風習が全国各地で見受けられる。つまり豊穣へとも導く存在が烏であった。

とにかく、オミサキ様と呼ばれた烏からは、死の匂いが漂ってくる。実際に死肉を啄む様子をリアルに見てきた人々は多い事だろう。その死を凝視し見えて来るものとは黄泉の国である。伊弉諾と伊邪那美が二人で国造りを始めたが、火之迦具土神を産んで伊邪那美は死に、黄泉の国へと向かう。その伊邪那美を求めて伊弉諾は黄泉の国へと探しに行くのだがタブーを破り失敗し、逆に伊邪那美と黄泉津醜女に追いかけられ、千曳岩で離別する。その手前で登場するのは、白山に祀られる菊理媛神だ。
白山信仰は広く全国に伝わるが、その白山の白とは浄化の色でもある。古代の産屋の壁を全て真っ白にしたのは、生まれてくる赤子を浄化する意味合いもあった。そして太陽の色も白で表される場合が多々あるのは、白は太陽光の色でもあった為だ。葬式の白黒は、光と闇を表している。葬儀に参列する人々が何故真っ黒な喪服を着用するのかは、白装束に身を包んだ死人の魂が仲間である事を悟られない為だとも云われる。喪服では無くて白い衣装に身を包んで参列すれば、死人は仲間だと思い、その人物を引き込むからだとも云われる。
黄泉の国から出た伊弉諾は、千曳岩を隔てて、伊邪那美と相対する。伊邪那美が「愛しきあながせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と言うと、伊弉諾は「愛しきあがなに妹の命。なれしかせば、あれ一日に千五百の産屋立てむ」と言い返している。恐らく産屋の壁一面を真っ白にしたのは、この「古事記」の話から来ているのだと思う。伊邪那美が殺すと言った人々を守る為に、産屋の壁を闇の黒と相対する、光である浄化の白色で染めたのは。

陰陽五行の「陰陽」は、男と女であり、白と黒に別れる。そして一日の半分は明るい昼間であり、半分は黒い闇である。その黒い闇とは日没からの事を云い、陽が沈んでからの暗闇は神々の時間帯でもあった。伊弉諾と伊邪那美の国造りとは、あくまで人間の住む国造りであった事を踏まえれば、闇を意味する黄泉の国は黒であり、神々の国であったのだとも思える。「古事記」における神代の物語は、あくまでも神々の物語であり、神武天皇を導いた八咫烏は神々に仕える鳥でもある事から、黄泉の国の黒に対応する烏で無くてはならなかったか。神代記を過ぎ景行天皇の子であるヤマトタケルが死んだ後白鳥となって、その魂を導いた事を思えば、神でもある神武天皇を導いた八咫烏の黒と、人間であったヤマトタケルの魂を導いた白鳥の白は対照的だ。つまり「サキ」とは神々を崇敬する為の言葉であり、何故に「オミサキ様」が真っ黒な烏であるのかは、その神々に仕える霊鳥であるからなのだろう。そう「サキ」とは「神々の軌跡」を意味するのかもしれない。それを踏みにじらない様「アト」に背を向け「サキ」に向き合って、国家を運営していたのだろう。