
七月七日には是非とも筋太の素麺を食べるものとされている。その由来として語られている譚は、五月の薄餅の話の後日譚のようになっている。夫は死んだ妻の肉を餅にして食べたが、そのうちから特別にスジハナギ(筋肉)だけを取っておいて、七月の七日に、今の素麺の様にして食べた。これが起こりとなって、この日には今でも筋太の素麺を食べるのだという話である。
「遠野物語拾遺299」

唐突に人喰いについて語られる「遠野物語拾遺」最後の話が、ずっと疑問であった。知り合いの古老に聞いても「そんな話は聞いた事も無い。」という。ただ、飢饉の時は食べるものが無く、人を食ったという話だ。六車由実「神、人を喰う」では、花巻の諏訪神社に関連させ、江戸時代の民俗学者とも云われる菅江真澄の、花巻における人喰いに対する問いを紹介している。当然、遠野でもあったのだと想像できるのだ。しかし、その伝わる人喰い譚が何故七月七日なのか?という疑問があった。
ところが野尻抱影「星の民俗学」を読んで、その内容が理解できたのだった。この野尻氏は佐々木喜善とも交流があり、この野尻氏に対して「遠野物語拾遺299」の話に関する報告書を送っていた。
「旅に出た夫の留守を守っていた妻が村の若者達から煩く言い寄られるのに堪えられなくなって、操を守る為に川に身を投げて死んだ。そこへ夫が帰って来て悲嘆のあまり、死んだ妻の肉と筋を食べた。この夫妻が空に昇って女夫星となったのだが、今でもこの日に素麺を食べるのは、その妻の筋を記念して供養する為である。」(佐々木喜善の報告書より)
野尻氏は文中で、こう語っている「こういう話で、東北地方に伝わるものらしくは甚だ陰惨だが、中国の索餅の謂れがここまで変化した事にはひどく興味がある。」索餅(さくべい)とは節句に食べる餅であり、中国の伝説に高辛子という悪童が七月七日に死んで小鬼となり疫病を流行させた。ところが、その小鬼が生前に索餅を食べたというところから、当日これを供えて祀り、一般の人々もこれを食べれば疫病にかかる事を免れると信じられた。それが日本にも伝わって、七夕に索餅を食べる地方があちこちにあるそうだ。
死んで神となる話は、日本にも多く伝えられる。有名なのは菅原道真で、死んだ後に雷などで祟りを為したとされ、天神という神に昇格し、天満宮などに祀られる祟り神である。この中国の伝説もまた死んだ者が祟り神になった話だが、中国での鬼とは死人を意味し、つまり祟る死人は、鬼でもあり神でもある。柳田國男の「妖怪とは神が零落したもの」という考えに近い存在でもあるが、元々の神とは一方的に祟る存在であった。節句とは正式には「節供」という食べ物であり、中国の伝説の場合は、祟り神の生前の好んだ索餅を命日に供える事によって祟り除けとなるという話。それが電線ゲームのように、伝えられているうちに、その地域性が絡み合って「遠野物語拾遺299」の様になったのだろう。つまり、七夕の伝説に、祟り神の信仰が重なって変化したものだと考える。

ただ「遠野物語拾遺299」の文中にある「スジハナギ」という言葉に疑問を感じる。例えば遠野では「スジ」は訛って「スズ」となる筈だ。また「スズ」は「シズ」も遠野地方では「スズ」と転訛する。
「遠野ことばー遠野地方の方言資料ー」にも「スジ」も「スジハナギ」も載ってない。例えば実際に妻の肉を食べたとして、どの部位を食べるのか?と考えた場合、それは一番食べ易そうな足ではなかったか?つまり筋肉繊維をスジハナギと称するなら、恐らくハナギとはハバキではないのだろうか?
子供のプヨプヨした白い肌を餅肌と称する事もある様に「食べたいくらい可愛い」と表現する場合が多々ある。「遠野物語拾遺299」の原型が中国の伝説が伝わってのものならば、その伝播の過程で意味が正しく伝わらず、節供に供える食べ物の餅が、七夕伝説やら、死んで祟り神になったやらでごちゃ混ぜとなり、誤って伝わったものであろう。実際、野尻氏に対する佐々木喜善からの報告書と、この「遠野物語拾遺299」にも、かなり曲解が生じている。まあ電線ゲームの極地みたいな話であろう。