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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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髪切り

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ある日の午前中、遠野駅の脇にある飲み屋街を歩いていると、ザックリと切られた髪の毛が道路に落ちていた。その切り口から何やら事件性をも考えてしまったが、それとは別に妖怪髪切りが頭に浮かんでしまったのだった。
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その妖怪髪切りは、どこからともなく現れて、人が気付かぬうちに髪の毛を切ってしまう妖怪だとされる。そう、切られた事に気付かないという事。この道路に無造作に落ちている髪の毛の束を見て、もしかして気付かないまま切られた髪の毛ではないかと思ってしまう。例えば、その場で誰かに切られたとしたら、自分の肉体の一部でもある髪の毛をそのまま放置して行くだろうか?


江戸時代の説話集「諸国里人談」には、夜道を歩いている人達が髪を切られる怪異が多発した話が紹介されているようだ。その話でも、髪を切られた本人が気付かず、切られた髪はそのまま道に落ちていたという事も、遠野の飲み屋街に落ちていた髪の怪異に似通っている。また明治時代にも、召使であった女性が便所で髪を切られ「髪切りが現われた。」として騒動になったようだ。
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そもそも髪を切るとは、どういう意味があるだろうか。上の画像は、遠野の八幡神社の奉納されている女性の髪の毛の束。恐らく戦時中に、家族の無事を願って奉納されたものだろう。つまりこの場合は、呪術として意図的に髪を切って神に供えたという事であろう。


戸部民夫「神秘の道具」によれば、髪は本人の意思に関係なく生えてきて、切ってもまた伸び、抜けても生え変わり、体から切り離しても腐る事無くその形態を保ち続ける。その神秘性から神に通じる神聖なもの、人の魂や生命力を象徴するものと考えられてきた。このように魂と生命力と結びつけられた髪には、古くから呪術的な力があるとされ、髪を切って神仏に供える願掛けの習俗は全国に見受けられる。


宇野久夫「髪形の知性」を読むと、世界中に髪を切る事をタブー視した民族や、時代があったようだ。その根底には、髪には髪が宿ると信じられていた事がある。この考えは日本にも伝わっており、髪(かみ)は神(かみ)と同じ意味を持つとされている。髪の毛の生える「頭(あたま)」とは、「天の霊(あまのたま)」であり、天から降って来た神の霊が憑いた所と考えられた。それ故なのか古代人は髪を切らずに、みづらなどのように髪を結うという事をした。


同じ髪でも、特に女性の髪は霊力に溢れると考えられてきた。女性の髪の毛は、例えば巫女が神降しをする時の依り代となり、危難除けの護符ともされ、神仏に対する祈願の呪物とされてきた。上の画像は、それを意味している。古代中国では、髪から魂が抜け出るとも考えられ、魂が抜け出ないように髪を結う習慣があったという。ただ「日本書紀」天武天皇13年「主として巫女の類の者は、結髪よりも垂髪の状態のまであることが望ましい…。」という御触れが出たのは、神霊を司る巫女は、長い髪を垂らしてこそ、その力を発揮できるものと考えられていたからだ。
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その人物の魂ともいうべき髪を切る妖怪とは、とんでもない。髪の毛には古来から魔除けの呪力があると信じられてきた事から、その髪の毛を切られるという事は、その人の身に加護が無くなるに等しい。そこで思うのだが、仏門に入る場合は剃髪、つまり髪を剃り落す行為とは逆に自らを魔からの危険に晒し、修行の身に置くという事だろうか。そして髪の毛が魔除けの効果があるのならば、自然に髪の毛が抜け落ちた人というのは、魔に魅入られやすい人という事になろうか。


ちなみに上の画像は、歌川芳藤「髪切りの奇談」であり、髪切りに遭遇した話を元に描かれているそうである。つまり、髪切りとは黒い影のようなもの。その黒い影といえば、この髪の束が棄てられていた場所は、「感応院と子供の黒い影」に関係ある場所でもあった。


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