
この朝を告げるニワトリが伊勢神宮の神鶏となったのには、太陽神としての天照大神と結びつくのは当然の事だったろう。昔話においても、ニワトリが早く鳴いた為に鬼を追い払ったなどの話があり、そういう闇の属性のモノを追い払うニワトリの鳴き声が神々しい太陽光と相まって神秘性を持たせたのだろう。しかし、その神々しさとは別に水死体を探すのに鶏が採用されているのは、陰陽五行において金属性とされ、土属性の水死体である土左衛門との相性からであるようだ。また十二支で十番目の酉年生まれの人の一代守り本尊が不動明王となる。遠野の卯子酉神社の御祭神の一柱が不動明王であるのは、卯子酉の「酉」と重なるからである。
不動明王の名前が出て来たので、思い出すのは本地垂迹の関係。不動明王の本地は大日如来とし、その垂迹として不動明王。その本地の大日如来は天照大神の本地垂迹でもある。とにかく仏教側の論理によれば、本地が大日如来でありその垂迹として天照大神がいるとし、神仏習合が成されている。
ところでその太陽を呼び込む鶏が、実は雷神にも結び付けられていた。田中貴子「あやかし考」の中に「鶏形の雷神」という項で、鶏と雷を重ねて描写している書を紹介していた。その一つは死後、天神様とも雷公とも称された菅原道真が序文を記したともされる「文徳天皇実録」に、雷雨の夜、北野天神社の南東方面の空中で闘っている描写から、雷と鶏が結びつくと考えられていたようである。

「雷於天地為長子」(雷は天地に於いて長子と為す)という古代中国陰陽生成観念の言葉があるが、これは天地が交わって雷が生じると思えばよい。この言葉から先に紹介した「文徳天皇実録」の雷雨の夜に鶏が闘っているという文だが、もしかして鶏が交わっているという考え方が出来る。「淫」という文字は「淫乱」など現代ではいかがわしい意味に使用される場合があるが、本来は「水に従う」という意味となる。古代中国では子供を産む事を「水中から子供を掬う」とされる事から、水や雷雨が性交に掛けて呼ばれていたのも、原始人及び古代人の自然崇拝、生殖崇拝、祖神崇拝の観念から形成されたとされる。
日本の神道の原初が穢祓いの観念から発生したとされるのは「古事記」において、伊弉諾が黄泉国からの帰還からの穢祓いに通じる。雛祭りという節句があるが、原初は雛を川に流す雛流しから始まったとされる。中国の「説文」によれば、「雛、雞の子也」とあり幼児や胎児の象徴物とされていたようだ。つまり雛を流すとは禊と祓の起源であり「古事記」において、間違って女神である伊邪那美から先に声をかけ事が原因で不具の子である蛭子が生まれたので、葦船に乗せて流してしまったのが、日本における雛祭りの原初であり、その間違った行為と生まれた不具の子に対する禊と祓なのだろう。


また天照大神に関する変わった伝承であれば「古今和歌集灌頂口伝」に、いる筈の無い天照大神の妹「渡津ひめ」が登場している。「渡津(わたつ)」とは綿津見(わたつみ)であろうから龍王の娘という意味になろう。何故唐突に、天照大神の妹という存在が現われたのかはわからぬが、恐らく天照大神の二面性を含んで作られた話だろうと思える。ただ古代において姉妹とは本来一体感の強いもので、互いに相手を我が身の分身だという認識で思われていた。つまり「二体の体に一個の人格を備えているか、一体の体に二個の人格を備えている。」と。この観念と似たようなものに、天河弁財天社の祭神の秘伝に「天照大神別体不二之御神」という表現と同じものである。また琵琶湖竹生島の宝厳寺に伝わる古文書「竹生嶋縁起略」は、欽明天皇時代(539~571)の祭祀が記されているという。そこには「欽明天皇六年乙丑四月初巳日に弁才天女、大内に示現して曰く、我は竹生島の弁才天、天照大神の分魂なり」と。竹生島の弁財天の正体は「天照大神の分魂」であるとしている。この分魂という表現もまた同じで、一つの体に二つの魂、つまり和魂と荒魂と同じ表現である。
伊勢神宮には天照大神が祀られるが、荒祭宮にはその荒魂とされる瀬織津比咩が祀られている。その瀬織津比咩とは水神であり、龍神に属する女神である。これは「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とあって、和魂が伊勢神宮に鎮座する存在であり、荒魂が武力などを実行する存在という事だろう。となれば、素戔嗚を戦う事になると意識して武装し誓約を結んだ天照大神とは天照大神荒魂であったという事だろう。その天照大神荒魂の武力の象徴である剣を噛砕いで宗像三女神を誕生させたのは、天照大神荒魂の分割表現であり、その存在をぼかす手法でもあった。剣そのものが大蛇など龍蛇神を意図し、太陽神である天照大神の性質と違うものであった。また祓戸大神を祀っている佐久奈度神社の祭神も、原初は瀬織津比咩尊一柱の神を祀っていたものを後から四神にしたのも、ぼかしの手法であろう。

仏教が伝来され、天照大神という存在は大日如来の垂迹とされた。物部氏と蘇我氏の争いは、神道と仏教の争いだと云われる。聖徳太子は、仏教側に立つ蘇我氏に加担したと云われる。その聖徳太子は戦に勝利したら四天王を祀る四天王寺を建立すると誓った。その四天王寺には「源平盛衰記」に記されている伝説がある。聖徳太子の誓いによって建てられた四天王寺であるが、完成した頃、数千羽にもなるキツツキが飛来し、一斉に四天王寺を破壊しようと突っつき始めた。キツツキは物部守屋の怨霊だとされ、聖徳太子が鷹に変身しキツツキを追い払ったという。それからキツツキは「テラツツキ」と呼ばれるようになったという話だが、これは物部守屋の怨霊というだけでなく、本地垂迹の関係の様に神道の神々よりも仏教の神が上に位置する事を怨んだ話では無いか。
この本地垂迹もまた、一つの二面性の話である。本地が大日如来で、垂迹が天照大神。または本地が大日如来で、垂迹が不動明王ともされる。その不動明王と重ねられる神が天照大神荒魂という事になるのだが、それもまた本地が天照大神で、垂迹が天照大神荒魂という事にもなる。つまり、不動明王の影に天照大神荒魂が隠されていたという図式も成り立つのである。
表現とは多岐にわたるもので、古代から隠された本質をいかに残す為の手段が様々な書物に存在する。遠野のわらべ唄にも同じようなものが含まれており、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝を「鎌倉のネズミ」と揶揄して歌ったのは同じ意味を持つ。明かされぬ本質を、いかに後世に残そうかという手段が、こういう二面性の表現に至ったのではないかと思えるのだ。