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6月6日は、【ろくろ首の日】らしい。当初、候補は6月9日もあがっていたそうだが、6月6日に決まったそうだ。ところで、首が長くなるとはあり得ない話。有り得なすからこそ、首が長くなるろくろ首は妖怪なのだろう。
ところで、慣用句に「首を長くして待つ」との言葉がある。これは「待ち焦がれる想い」が具現化したもののようだ。例えば、プッチーニ「蝶々夫人」がある。アメリカ海軍のピンカートンと結婚した蝶々さんだったが、ピンカートンの日本での任務が終了し「コマドリが巣を作る頃には帰って来る。」の言葉を信じ、海の彼方を見つめながら待つ。その海の彼方の更なる遠くを見つめようとする気持ちが、首を長くさせる感覚を作り上げたのだと思う。映画「風とライオン」において、「私はライオンの如く、私の場所に留まるしかない。」という言葉の様に女性は、昔からその場を守る存在とされた。もしかしてだが、その待つ存在が殆ど女性である事と、ろくろ首の殆どが女性であるのに、何か関連性があるのだろうか?
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心霊サイトに紹介された、一枚の心霊写真がある。どうやら結婚式でのスナップ写真らしいが、暗くなっている背後に首だけの女性が写っている。
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拡大した画像が、上の画像となる。これを心霊写真として紹介はしているが、「ろくろ首」でもいいのではなかろうか。ウィキペディアで「ろくろ首」を調べると、ろくろ首には、首が伸びるタイプと首が体から抜け出して、自由に飛行できるタイプがいるそうである。この一枚の心霊写真は、首だけが自由に飛行できるタイプという事になろう。先の「首を長くして待つ」がある人物を待つ気持ちや想いが、首を伸ばすのであれば、この画像は結婚式に出席できなかった人の想いが首だけを飛ばして、参加したという事になろうか。
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昔一日市の某という家の娘は抜け首だという評判であった。ある人が夜分に鍵町の橋の上まで来ると、若い女の首が落ちていて、ころころと転がった。近よれば後にすさり、近寄れば後にすさり、とうとうこの娘の家まで来ると、屋根の破窓から中に入ってしまったそうな。
「遠野物語拾遺229」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「遠野物語拾遺229」の話とは別に、「上閉伊今昔物語」には下記のような話がある。今の新町の裏通り、智恩寺の向かい側に蕎麦屋があったのだが、その家の女房の首は毎晩抜けて、夜な夜な遠野の町を徘徊したらしい。いつの間にか、それが遠野中に知れ渡り"抜け首女房のいる蕎麦屋" と評判を呼び、繁盛したという。
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ところでウィキペディアの「ろくろ首」の解説には、日本人の怪奇趣味を満足させる為に創作されたものという指摘があるようだ。となれば、遠野にも「抜け首」の女性の話が伝わるのだが、それもまた似たような背景から作られた話だろうか。
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「上閉伊今昔物語」に書かれている知恩寺前の「抜け首女房のいる蕎麦屋」が気になったので、大正時代の地図で知恩寺前を確認してみると、医院の他に店屋らしきが数字で「74」「75」と記されている。その「74」「75」を確認してみた。
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大正時代の地図における「74」は「多賀座」で多賀神社前にあった芝居小屋で、後に映画をも上映するようになった建物。そして「75」が「いく代」という蕎麦屋であったのが、この大正時代の地図の広告からわかった。そしてその代表者が「及川はな」という女性のようだ。現代の遠野の住宅地図で照らし合わせると、及川の場所なのだろう。「遠野物語拾遺」に話があるように昔の多賀神社前は、狐が出てくるような寂しい場所だった。そこに蕎麦屋を開業したのならば、それを逆手に取った宣伝として「抜け首女房のいる蕎麦屋」で繁盛したというのも、何となく納得してしまう。ましてや、その蕎麦屋の主人が女性であったのならば、いろいろな苦労があったものと思える。
ちなみに、現代の住宅地図に載る「及川」は、抜け首の蕎麦屋の主人「及川はな」の関係ではなく、たまたまひと時の住まいとしてその家を借りた、まったく関係のない及川さんであったようだ。