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以前、山沿いの道を歩いていると、ガサガサという音を立てて大きな獣が動いたので『熊か!?』と思ったが、馬だった事がある。その馬は、どうやら笹の葉を食べていたようだ。昔から馬は、病気になり食欲が落ちても笹の葉だけは食べるものだと聞く。そして近代となり、日本が戦争の緊張に包まれている時代「東北地方の笹の葉を食べている軍馬は健康だ。」と広まった。東北の馬は蝦夷の時代から有名で、朝廷軍が金や鍛冶の技術だけでなく蝦夷の馬を求めて群がった。小友町の貞任山では安倍貞任の時代に馬が放牧されており、その馬を盗みに貞任山を源義家の軍が襲ったとの伝承もある。平泉を滅ぼした源頼朝もまた、名馬として蝦夷の馬を手に入れている。江戸時代、秩父の三峯神社の御分霊を是非岩手県の衣川に願ったが、何度も断られ続けた。そこで南部の名馬を秩父三峯神社にわざわざ連れて奉納したところ、どうにか御分霊を許されたのが享保元年3月。それだけ蝦夷の馬であり、南部駒とも呼ばれる東北の馬の素晴らしさは、全国的に広まっていた。そして近代でも東北の馬が素晴らしいとされているのは、東北の笹の葉を食べていたからだろうか?
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岩手県の俗信に、こういうものがあった。「戦争の起こる前兆として、笹の葉に鉄砲痕が出来る。」というもの。その鉄砲痕とはウスイロカザリバという蛾の食痕で、数個の小さな穴が出来る。実際に、大東亜戦争の起きる前に、沢山の笹の葉に鉄砲痕が出来た後に開戦となってしまった為、かなり大騒ぎになったとか。
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また秋田県仙北郡では、チマキザサの葉先にハムグリガによる食痕がたまに見られた。仙北郡では、それを機関銃の跡と言われ、一度弾に当たったものは二度と弾が当たらないとされ、出征兵士が一枚づつ食痕の付いた笹の葉を弾除けとして身に着け出兵したと伝えられる。こういう迷信や俗信を信じてしまうのは、戦争で死にたくないという気持ちが強かった為だろう。例えば遠野でも、兵士が無事に帰ってくれるように、八つの八幡神社を参詣した記録があるが、これも俗信を信じてのものだった。八幡神は軍神としても伝わり、神馬に乗る。その軍神の騎乗する馬が好んで笹の葉を食べるというのは、笹の葉の鉄砲痕が戦争と結びつけられる一つの要因でもあったろう。
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笹の葉といえば「ものがたり青笹」に、こういう話が載っている。ユキドウという神様を祀った時に湯田て神事があり、その神事に使用された笹を地面に挿したところ、根が付いたのが、裏も表も青い笹の葉であったという。それから青笹の地名となったという地名譚だが、笹の葉は確かに神の言葉を聞く為のアイテムでもあった。神楽の始まりは「古事記」において、天鈿女が香久山に生える笹を取って舞った事から始まる。神楽を舞う時の「ささ、ささ」という掛け声は、「神楽声(ささごえ)」と言われ、また「万葉集」でも神の枕詞を「神楽浪(ささなみ)」と言う事から、笹の葉は神聖なものだった。つまり、笹の葉の食痕が神の言葉と信じられた為、戦争が起こるなどという俗信として広まったという事だろう。
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遠野は、古来から馬産地で有名だった。ところが戦時中「お国の為だ。」と、遠野の馬達が軍にタダ同然で奪われてしまった。悲観に暮れていた遠野に手を差し伸べたのが北海道に住む、今では競馬ジョッキーで有名な武豊氏の祖父であった。武豊氏の祖父は、多くの馬を寄付してくれて、遠野は再び馬産地としての復興を果たしたのであった。