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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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遠野不思議 第八百九十六話「遠野守大権現」

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これは遠野ではなく、盛岡市の手代森に鎮座する神社である。遠野と名付けられている為に、ここで取り上げようと思う。
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この「遠野守大権現」の由来は、平泉が源頼朝に攻め込まれ、源義経がその目を逃れるように、越後獅子姿となり手代森まで逃げ延びてきた。新山家では、源義経をかくまって、手厚くもてなした。源義経が新山家を去る時に、形見にと一幅の掛物と越後獅子の獅子頭を残して、北へと旅立った。鎧姿の源義経馬上図は、新山家の家宝として今に伝えられている。獅子頭は、荒神ゆえに土中深く埋められ、その上に大石を据えて、傍らに祠を建て、殿守(とのまもり)大権現と命名したが、源義経隠しの為に、遠野守大権現と扁額に書いたそうである。
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大石の傍らに祠を建てたとあるが、その祠の傍らには、出羽三山の石碑と奇妙な形の石がある。この奇妙な形の石が、獅子頭を埋めた上に置かれた石だろうか?
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「殿を守る」で「殿守大権現」が、源義経を意図して怪しまれると考えられた為に「遠野守大権現」と変えたのは、余りにも唐突過ぎる気がする。この遠野守大権現を祀った新山家が、どういう家のなのかはわかっていない。ただ新山で思い出すのは、やはり源義経に所縁の深い奥州藤原氏である。藤原清衡は、新山寺を、奥羽六百ヶ所に祀らせたとあるが、全てはわかっていない。この手代森の地は、紫波郡の乙部村に属していたが、紫波郡紫波町にも新山寺があり、新山という名の山もある。新山寺の大抵は、新山権現から新山神社と、神社化しているのが殆どである。また同じ紫波郡の土橋には、早池峯神社があるが、元は新山神社であり、恐らくここも本来は新山寺ではなかったか。
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この遠野守大権現の地も、鳥居が備えられ神社化しているのがわかる。
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紫波郡の信仰祭祀を調べると、やはり出羽三山の信仰が根強いようだ。出羽三山を登拝する事を「最上参り」と称し、帰郷後は出羽三山の供養碑を建立し祭祀する習わしがあったようだ。この遠野守大権現の地の出羽三山の碑もまた、その例にならったものだろうか。ところで、奥州市の新山神社は、やはり奥州藤原氏の縁が深く、その新山神社に祀られている神は、羽黒大神であり、それは早池峯大神でもあった。奥州藤原氏は、羽黒へ多くの寄進をした事で有名だが、それは同じ岩手の地の早池峯大神と同じであったからだろう。中尊寺境内の白山神社は、早池峯へ向けて建てられたと伝えられ、出羽の羽黒と岩手の早池峯には深い繋がりがあった。
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遠野との縁を探るため「紫波郡誌」を読んでみたが、せいぜい乙部村に隣接する佐比内村に、遠野との縁があったくらいか。


この遠野守大権現を思うに、元々は新山寺であったこの地を管理する別当が、その後に新山氏を名乗ったものと思える。奥州藤原氏との縁の深さから、源義経伝説を取り込み、由緒にしたのだと思えるのだ。遠野という名称は恐らく、早池峯と遠野の関係、新山と遠野の関係を示しているのではないかと思える。大迫の早池峯神社が、遠野早池峯神社の遥拝所であった事実からも、新山=早池峯=遠野との意識があったのではないか?この図式が揺らぎ、早池峯信仰の乱れが広まったのは、盛岡南部が統治してたらだと思えるのだ。




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