

「遠野物語109」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語」の補注には「雨風祭は本来、二百十日(陽暦九月一日頃)に行われる雨風鎮めの共同祈願である。」という。別称として「風祭・風日待・風神祭」と云い、基本的には風神に対する祭であったのに、後から虫祭の習俗が重なっ伝わっているようだ。伊能嘉矩「遠野の民俗と歴史」によれば、伊能嘉矩はこの祭を広瀬竜田祭と同じであるとしている。 「大忌風神の祭といふ是なり、風水の難を除きて、年穀の豊なる事を祈申さるゝにや。」 また伊能嘉矩は、大忌風神祭、道饗祭、御霊絵、即ち辻祭に関する観念が混同の姿をもって奥州に伝えられ、それには風雨の厄と疫鬼の禍が結び付けられていると説いている。まず「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という歌の最後「北の方さ祭る」だが、これは玄武を意識しての信仰であるようだから、遠野であれば素直に早池峯を指してのものだと考えるべきだろう。まず風雨鎮めに関しては、時期的に収穫の頃の台風除けを意識しているものだと思える。また、サムトの婆で知られる風もまた同じもので、風による厄災を鎮めねば五穀豊穣はままならぬのも、山神に対する意識がある為だろう。ましてや遠野は、盆地である。山々の手のひらの上に生かされているのが、遠野の民だという意識はあったのだと思える。

恐らく、遠野の歴史の中で古くから中心であったのは、土淵であり附馬牛であったろう。その土淵だが「土渕教育百年の流れ」を読むと"明神"の働きかけにより、和野から一の渡まで一つの大きな文化圏を作っていたと考えられているようだ。その明神とは、河内明神か諏訪明神であろう、としている。河内明神は蛇神だが、諏訪明神もまた蛇神。ただし諏訪明神は、風の神でもあるとされる。ただ、風の神としての諏訪明神だが、「倭姫命世紀」には、「風神 一名志那都比古神。広瀬竜田同神也。」と記されている。その志那都比古神だが、志那都比古神の「志那都(しなつ)」は「信濃(しなの)」の転訛とされる。つまり、志那都比古神は諏訪明神でもあるという事となる。これは伴信友「倭姫命世紀考」に「級津彦命、科戸邊命、伊勢津彦命ト同神ニテ諏訪ノ建御名方モ同神ナルコト云ベシ」と記されているように、突き詰めていくと全ての神が一体化してしまう。これらを全てまとめて現れる神名は、遠野の早池峯の女神となる。そうかつて、水神として、また風神として、また穢祓の女神として、その地を祓い清めてきた瀬織津比咩。穢れとは、疫病も含め、あらゆる穢れがあるのだが、その穢れを水と風の力で祓う女神が、岩手県の中心である早池峯に坐しているのだ。岩手県に未だコロナウイルス(武漢肺炎ウイルス)が広がらないのは、早池峯の女神の力と思ってしまうのは仕方ないのではなかろうか。