

そして、もう一つ気になる事がある。伊能嘉矩「遠野くさぐさ」において、遠野におけるカクラサマの伝承を紹介している。「野外に於ける一種の神にカクラサマと呼ぶあり。木造の半身像にて、多くは荒削りに形つくられ、男女二体より成り。是り太古八百万の神々の中にて剰れる神にまし此神より除外されたまひしなりと。」と伝えられているようだ。それでは「除外された神」とは、どういう神であろうか?思い出すのは、高天原から移封され、最後には根の国・黄泉国の神となる素戔男尊が思い浮かばれる。もしくは、武甕槌と経津主神でも倒せず、代わりに派遣された建葉槌命によって倒された香香背男(天津甕星)もまた除外された神と考えるべきか。さらに「古事記」に記載されない瀬織津比咩のような神もまた、除外された神と考えてよいのかもしれない。カクラ神社は、殆どが村境に建てられている。村境とは道祖神や各々石碑などが建てられる、あの世とこの世の境界ともされる場所である事からも、カクラサマが黄泉国に寄った神である事が何となく理解できる。オシラサマが男女二体による神像であるとされ、実際にオシラサマは男女二体、もしくは馬像なども含めて三体となり祀られている。しかし、それではカクラサマがオシラサマと対になる神であるのには不自然ではないか。そのカクラサマもまた、男女二体として別に祀られているのは、やはり不自然。オシラサマとカクラサマが形態や霊験において全く相違する神であるというのは、火と水、男と女の様に、陰陽五行に則った形である。それ故に、オシラサマの知られている祭祀方法が、カクラサマを排除した祭祀方法となっているのは、どこか解せない。もしかして伊能嘉矩の紹介している様に本来、オシラサマの対であったカクラサマが家神から除外された為に、現在伝わるオシラサマの祭祀方法になったのではとも考えられる。

「ナイ」が「谷」であるなら、それは窪んだ大地と考えて良いのかもしれない。屋内の奥座敷に祀られるオクナイサマは、正確には「奥内様」であろうか。「奥内」が、奥の窪んだ大地、つまり沢の流れる谷であるならば水をも内包する。それに対比するかのように、家屋内で日(火)を扱う場所がある。竈がある台所である。陰陽五行で、日・火は陽であり、男を意図し、水は陰であり女を意図する。家屋の台所にある竈神は火男=ヒョットコとしても有名となり、そのヒョットコに対比されるものにオカメがいる。このオカメが登場するのは近代になり里神楽で登場したのが初めてとされるが、カメの「カ」は甕からきている。もしくは、亀に似ているからともされる。どちらも水に通じる語であるが、本来は蛇神を意味する龗(オカミ)が原型ではなかったろうか。「オカ」そのものは「陸・岡」の意を含み大地にも通じるが、「オカ」の原初は「オ」は「峯」であり「カ」は「棲家」が結合して出来た言葉であるようだ。また、亀といえば四神の北を守護する玄武という亀の神獣がいる。陰陽五行において、北を護るのは亀であり、水を意味している。そして色は黒色であり、「遠野物語拾遺44」「遠野物語拾遺46」に登場する黒蛇大明神が、実は早池峯大神であったのも、陰陽五行において黒蛇が北を意図した蛇神であった事を意味している。古代日本で、峰に棲む神とは蛇神でもあった。どちらにせよ「オカメ」も「オカミ」も蛇神であり水神に通じる語である。つまり家屋には、男神である火神と女神であり蛇神である水神の棲家が意図的に作られていたのではなかろうか。
オシラサマとカクラサマが本来、対となる男女神であったのならば、その本来の形を繋げる役目がオクナイサマではなかったか。オクナイサマはオシラサマであるとはされているが、オクナイサマそのものの語に、オシラサマとカクラサマを繋げる意図をどこかで感じてしまうのだ。「古事記」には、古代の縄文人が使用していた語によって理解出来た文がある事から、「古事記」そのものが大和言葉と縄文語の融合によって記された書であったのだろう。「ナイ」という語もまた縄文語でも捉える事が出来、「オカ」という語を含めて、遠野では全て文字では無く、口承によって伝わって来た事からも、あらゆる語が混雑していたのではなかろうか。オシラサマ・カクラサマ・オクナイサマは、未だに分からない事が多い。あくまで「恐らく、こうであったろう。」という漠然としたものでしか理解できていないのが現状である。新年早々、戯言・妄想の記事ではあったが、今後もこういう戯言・妄想のような記事も書いていきたいと考えている。何故なら、本当の意味を探るには、いろいろな視点もまた必要となる。少々突飛な視点であったも、何かのきっかけになれば良いだろうと考えるからだ。