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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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岩手山の噴火と芭蕉

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昨夜、秋田県を震源とする地震があり、位置を確認すると、岩手山に近いと事から一瞬火山性地震か?などと思ってしまったが、そうではなかったようだ。岩手山の噴火は、大正時代まで遡るが最近は噴火の気配を出した時もあったが、どうにか噴火までは至っていない。ところで火山の噴火は神の怒りとされ、古代の人々は、その神の怒りを鎮める為に苦労したようだ。その火山の噴火を別に"天泣"と呼ぶ。確かに火山の噴火は、天を覆うほどの激しさであるから、イメージが湧く。そしてその天泣の別名を"魚涙"と云うそうだ。火山の噴火で、川の中に棲む魚も被害に遭って泣くという意味だろうか?

行く春や 鳥啼魚の 目は泪

上の句は、松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちの時に詠んだ句である。一般的なこの句の訳は「うららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。」しかし、火山の噴火の別名を「魚涙」と知ってしまうと、別の考えが浮かんでくる。

芭蕉が奥の細道に旅立ったのが1689年(元禄二年)の桜が咲く頃であったと。しかしそれが新暦でいえば5月16日という事から、疑問が残る。桜前線は、南から北に移動するように、必ず時差が生ずる。現在の東京での桜は4月前後に咲くのであるが、岩手県の桜は5月前後が一般的だ。春の花といえば桜の事で、「花の色はうつりにけりないたずらにわがみ世にふるながめせしまに」という小野小町の歌に登場する花は桜を意味している。それ故、芭蕉の句の訳として「花咲き揃う別格の春」とは、桜満開の春を詠っているものと思われるが、5月の東京での桜は、既に散っている。つまりこの芭蕉の句とは、これから向かう先の春を詠んでいる句ではないだろうか?

岩手山は1686年に噴火して、更に1687年に噴火している。恐らく岩手山が噴火したという情報は、芭蕉の耳にも入っていた事だろう。しかし、現在の情報伝達時代とは違い、冬をまたいだ1689年の春において芭蕉は未だ岩手山が噴火しているものと思っていたのではないか。それ故の俳句が「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」とは、これから自分が向かう先の春は、岩手山の噴火で鳥啼き魚も泪しているに違いないという意味の句では無かっただろうか。

久慈星

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遠野生まれの遠野育ちでありながら、自分には遠野の血はまったく入っていない。両親がどちらも、久慈出身な為だ。久慈といえばもう数年前になるか、全く観てはいなかったがNHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の舞台で有名になった、岩手県の北に位置する海の街でもある。

自分の知っている有名な久慈は、柔道の三船十段か琥珀くらいだった。その「ひさしくいつくしむ」「久慈」の語源はどこから来ているのか謎になっている。「久慈市史」を読んでも不明とされていた。もしかして、茨城県の久慈と関係があるのでは無いかとも考えたが、確証が無い。ところがある時、星に関する民俗の本を読んでいると「久慈星」というものを発見した。どうやら、天文暦象の諸事一般を載せた書を「日爾雅(くにが)」というらしいが、古事記編纂の時代に北辰が天上天下の根源を為す信仰が広がり、いつしか斗極(北辰)に久慈星という名が冠せられたのだと。つまり「日爾雅(くにが)」の「日爾」は「くじ」とも読む。しかしこれでも、久慈市の久慈がここから来ているかといえば、少し弱い。ところが久慈という名称に、また別の説があった。

「儺の國の星」によれば筑紫では亀の呼称を「鼈龜(ぐず)」あるいは「渠師(ごうず)」と呼んでいたようだ。倭人はその音を「宮子(くうし)」と書き、陸奥九戸久慈などに伝わったとされている。ところが、古代中国では卜占の女人を宮子(ぐうず)と崇めたらしいが、それを宮姑(みやこ)とも呼び、陸中閉伊宮古に伝わったともされている。ただし根源が亀であるから、それが卜占としての「宮姑(みやこ)→宮古(みやこ)」と、北を玄武とする斗極の「鼈龜(ぐず)→宮子(くうし)→久慈(くじ)」の違いはある。つまり、岩手県の久慈市と宮古市は、どちらも北を意味する言葉であったという事。先の「日爾→久慈」も、北を玄武とする事で重なる。簡単に訳してしまえば「久慈」とは「北の亀」、つまり「玄武」という意味の地名となる。これは朝廷側の立ち位置により、岩手県の地名の多くは朝廷の北に位置する地域であるとして付けられたものであったか。

河童探し

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兵庫県から、わざわざ河童探しに来た学生を、観光では知られていない河童の生息地へと案内した。冬のピークは過ぎたものの、まだ春というには気温がまだ低い。こういう時期でありながら、川原にでもテントを張って河童を探すのだという。
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ただ淀みの川や池などは、まだまだ凍っている為に、河童がいるのかどうかさえ疑わしい状況だ。画像の河童池も、水の流れのあるところは氷が張って無いものの、それ以外はほぼ凍っている状態。これじゃあ河童は、どこかへと引っ越しているか?
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テントを張る場所は、遠野市内にある十か所以上の河童淵の中でも「遠野物語」に記されているように、猿ヶ石川沿いにしたいとの事。果たして、この学生たちはどこにテントを張って河童探しをするのかはわからない。まあ、寒さに負けず、頑張って欲しいものだ。
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ところで、雪融けの田んぼに、沢山の白鳥が集まっていた。まるで難民キャンプかと思ってしまった…。

鷹鳥屋

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戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長について書かれた「信長公記」という書に"遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上した"と記されている。遠野孫次郎は、阿曽沼氏が遠野氏とも称されていた事から、遠野孫次郎は阿曽沼氏だとされてきた。しかし、学者である大川善男氏によって、それは否定された。真意は定かでは無いが、小友町の鷹鳥屋が白鷹を飼育していた地である事から、織田信長に送った白鷹は鷹鳥屋産であろうとなっていたようだ。
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何となくだが、信長に白鷹を献上したので、鷹鳥屋という地名が付いたのかと思っていたが、どうもそれ以前には鷹鳥屋の地名はあったようだ。"お箱石"と呼ばれる巨石がある。この巨石の場が、鷹を訓練した地と云われている。「小友探訪」には「当時その白鷹を飼育せし地なるを以て、鷹鳥屋の地名出る。」と記されている事から信長に献上した後に"鷹鳥屋"という地名が付いた様にも思えるが、それ以前に阿曽沼氏の家臣による鷹鳥屋の館も築かれている事から、既に地名はあったものと思われる。
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ところで"鷹雉(たかとり)"と呼ばれる鳥がいる。実はこの鷹雉、"山鳥の古名"であり、現在遠野市を象徴する鳥として認定されている。鷹は「たか」であり、「たかとり」とは呼ばない。恐らく「たかとりや」と呼ばれる地名があり、後から信長に献上した鷹の話にちなんで鷹鳥屋という漢字があてられたものと察する。鷹鳥屋の地形は周囲を山に囲まれ、谷の合間の集落の様になっている。恐らく本来は「鷹雉の棲む谷」から「鷹雉谷(たかとりや)」と呼ばれていたものが、「信長公記」の一件から「鷹鳥屋」に変更されたのではと考えてしまう。この地には鷹も、かなり生息していただろうが、それよりも鷹の"獲物としての山鳥"が多く生息していた為の「鷹雉谷(たかとりや)」では無かったか。

荒御魂としての桜

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サクラの「サ」は、主に"田の神"を意味する"神霊の「サ」"と一般的に云われるが、あくまでも大和朝廷など主体の概念かとも思える。何故なら、遠野だけでなく岩手県全般に弥生遺跡は殆ど無く、縄文遺跡の上に奈良・平安の遺跡が重なっている。つまり、岩手県には弥生時代は殆ど無かったという事になろうか。温暖な秋田においては弥生遺跡はあるものの、縄文と混雑する斑状態であったという。例えば遠野周辺の地域を見てみても、山村の集落などでは昭和になってどうにか米が栽培されるようになったという地域もある。つまり岩手県の気候は米作りに適しておらず、現代となって米の品種改良により、寒冷地でもじゅうぶん育つ事の出来る米が開発された。それ故に今ではどこでも米作りが行われている。それでも米は貴重で重要な食料である為、大事な田植え時期と桜の開花が重なる事から、関連付けて考えられたのだろう。
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平安時代に花といえば桜を意味していたが、奈良時代の花といえば梅であったようだ。それでは奈良時代に桜は無かったのか?というと、そういうわけではないようだ。中国文化の影響により、梅の花を愛でる傾向があり、どうもそれに則って桜をさて置いて、梅の花を称賛したようだ。梅の花といえば、前九年の役の後に都へと連れられた安倍宗任に対して、都の人々は梅の花を見せ「奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろう。」と侮蔑し嘲笑したところ、安倍宗任は「わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と答え、都の人々を驚かせたと云う。これが史実化どうかはわからぬが、とにかく東北には桜も梅も古くから咲いていたのだと思われる。

東北における神社などの建設は、坂上田村麻呂以降になる。それまでは、山なら山に対して、ただ手を合わせるだけであったと伝えられる。そして恐らく、桜に対しての信仰の概念が存在していたのではないかとも思われる。8世紀前半に成立した「古事記」には、アイヌ語も含まれ使用されている事がわかっている。

「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした事により、忍熊王が神功皇后に琵琶湖に追い詰められ、入水する時、家来の伊佐比宿禰に対して「いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ」と歌った歌があるのだが、今まで家来に対して「吾君(わがきみ)」と呼びかけるのは不可解とされてきたが、それをアイヌ語の「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなった。これは「応神紀」で天皇が大山守命と大雀命に対し「汝等は兄の子と、弟の子といづれか愛しき」と問うのだが、大雀命は、弟の子に譲りたい心情を察していたので「兄の子は既に人と成りて、是れ悒きこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、是ぞ愛しき」と答えたのに天皇は反応し「佐邪岐、阿芸(アギ)の言ぞ、我が思うが如くなる」の阿芸も以前は「わが君」と解釈されていたが、不可解だとされていたのを、アイヌ語の「アキ」と解釈すれば、先ほどの天皇の言葉は「佐邪岐、弟の言った事が、自分の思う言葉だ」と、すんなり理解できるようになったという。

また「万葉集」の人麿の歌に「跡位浪立(あといなみたち)」というのがあり「とゐ波立ち」「あとい波立ち」と読んできたが意味が通じなかったそうで、そこでアイヌ語の「アトイ(海)」を採用してみると「海波立ち」とスンナリ理解できるようになったという。

アイヌ=蝦夷=陸奥というわけではないが、言語も含め蝦夷の思想や信仰も組み入れられた時代が8世紀であったのかもしれない。そして坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後、天台宗などが布教に勤めたのが8世紀後半から9世紀になってからとなる。
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サクラの「サ」には、「栄える」「盛ん」「幸」という正の力を表す言葉であるが、「クラ」はその神が斎く台座という一般的な解釈になっている。先の述べた様に「サ」は田の神を意味する神霊の「サ」である事になっている為、山の神は稲作を守護する為に桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となると信じられ、これが一般的なサクラの認識となっている。ただ、これから桜とは山に咲く花であり、やはり日本の桜の始めは山桜から始まったと理解できる。そして、山神と密接な関係にあるのが桜であるという事。古代の山岳信仰の中心となっていたのは、山神である。人々はその山神の棲まう聖なる山に咲く桜を、神の依代として欲した。桜を庭先に植え始めたのは後年の事。つまり、田の神となる山神を里に導く為に行われたのは、信仰の深さからくる桜の植樹であったのだろう。
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画像は、6月11日に撮影した早池峯に咲く桜。既に葉桜になっているが、その年にもよるのだろうが恐らく満開は6月前後となるだろう。遠野の桜の開花は、やはり年によるが5月前後となる事から、早池峯の桜の開花とは1ヶ月違う。しかし早池峯は遠野で一番の高山であるから、山桜はもっと低い山にも咲くものである。それでも里より桜の開花時期は、遅いのである。これからもわかるように山桜から始まった日本の桜の本来は、田植えの時期とは結び付いていない。
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画像は、6月の早池峯に散っていた桜の花びら。

古代の日本では、風で桜の花びらが桜吹雪として舞い散る時期は、疫病が流行る時期と重なったと云う。そこで、疫神として恐れられた三輪山の麓の大神神社では「鎮花祭」がおこなわれたのだと。ただ「鎮花祭」は大神神社に限定されるものではなく、他の多くの神社でも行われている。

「季の春、花鎮めの祭り謂ふ。大神・狭井の二つの祭りなり。春の花の 飛散の時にありて。疫神分散して癘を行なふ。その鎮遏の為、必ず この祭りあり。故に鎮花といふ。」【養老律令】

桜の花が飛び散る事により、疫病もまた広がると考えられた為「鎮花祭」では、桜の花が散らないように願った。当時の人々にとって、桜の花の呪力は相当のようで、桜の花に疫病の退散を願ってきた。そしてその鎮花祭では、歌が添えられる。

幣として桜の花を枝ながら 山の主に今ぞ手向くる

この歌は、疫病を穢れとみなし、桜の小枝は神の依代となるので、それに神を宿し、疫病を山の主に託して祓ってもらうというもの。また時期的に、稲の花の落ちない為の願いも込められていた。山の神が春に里に降りてきて、田の神となる。その田の神に稲の花が落ちないようにも託したのであったようだ。 つまり、山神とは"穢祓の力"を有する神という事になる。そしてこれは、遠野に伝わるオシラサマに通じる観念でもある。遠野のオシラサマは、顔の彫られた桑の木に着衣を重ねていくものであるが、古着とは穢れたものであるから、オシラサマに着衣を重ねるとは、穢れを重ねる事でもある。そしてその穢れを、オシラサマが祓うという事。つまりオシラサマには山神と同じ霊力が備わっているという事になる。
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遠野の白望山の背後に、金糞平という蹈鞴場がある。そこには長い樹齢を誇る山桜が咲いているが、採掘・治金の場にも桜が何故か植えられているのは、やはり山神への感謝の意であるか、山神を憑依させる依代としての桜であったのか。こういう蹈鞴場から作られるものに、諏訪大社で有名になった佐奈伎(サナキ)鈴がある。これは二荒山にも奉納されているものだ。

この「佐奈伎(サナキ)」の「サ」を蹈鞴界では「表面が何も吸着していない純粋無垢の素肌の形容」として伝えられる。そして「佐奈伎(サナキ)」の「ナキ」は「精錬されたばかりの眞金、即ち純粋成分の金属」を意味するのだという。

サクラの「サ」の意味も、サナキの「サ」の意味も、どちらも純粋で正の力を示すものであるようだ。しかし「クラ」には神の座という意味の他に、古代の縄文人は「影」という意味を込めて使っていたようだ。
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闇龗神(クラオカミ)、高龗神(タカオカミ)は、貴船神社の祭神にもなっているが、闇(クラ)は谷あいの意味であり、高は闇(谷)に対して山峰を指している。龗・淤加美は、古来より雨を司る龍神とされている。つまりこの高龗神と闇龗神を合せて、山に棲む龍神を意味している。陰陽五行においては、この世には陽と陰があり、男と女がいて、光と影がある。山にもまた、突き出した峰があって、窪んだ谷がある。「闇(ヤミ)」という、夜を意味する言葉を「クラ」と訓じるという事は、即ち「クラ」が影を意味するという事でもある。

日本の神は、和魂と荒魂の二つの魂を持つと考えられていた。儀礼的には、和魂をうまく導入し、荒魂を退けると言っては語弊となるか。一層の繁栄を求める場合は和魂を求め、災難除けには荒魂を願うというのが正解か。つまり米と桜の関係は、米が和魂であり、桜が荒魂という事になろう。天皇と米は新嘗祭などからみても結び付きが強い。天皇の家紋が菊の御紋であるのも、その形状が太陽を示しているかのようで、まさに和魂を意図しているのではと思える。
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梶井基次郎「桜の樹の下には」という作品で有名になった"桜の樹の下に死体が埋まっている"という都市伝説らしきは、間違ってはいない。梶井はインスピレーションで書いたかのようであるが、桜が人間などの死体から滲み出る液体を吸い取って、あの妖しくも美しい花を咲かしていると感じたようだ。実際、桜の樹齢(ソメイヨシノ)が人間の寿命と近いと思われた事から、子供が生まれると庭先に桜を植え、その生まれた子供の痛みや苦しみ、そして悲しみまでもを吸い取って貰えるよう願った"人間の依代"と認識された桜でもあった。

桜は、人の穢れを地面の下へと水と共に吸い取り、黄泉国であり、根の国底の国へと流す役割を担う。祓戸四神の一柱である速佐須良姫は、本居宣長が須世理姫姫と比定している。同じく根の国に赴いた建速須佐之男命と「速」で重なるのが速佐須良姫である。その速佐須良姫に流し送る役割の初めが桜であり、桜の女神ともされる瀬織津比咩である。

佐久奈度神社に当初、一柱の神として祀られていた瀬織津比咩は、桜谷(佐久奈谷)において桜谷明神として存在していた。桜谷は、黄泉国に引き込まれるという死の匂いを伴った俗信を持つ谷であった。先に紹介したように、谷は闇であり、影でもある。その桜谷(佐久奈谷)は、桜の名所と言うわけでもなかったらしい。それはつまり、「サクラ」そのものが樹木としての桜だけではなく、闇でもあり影でもある荒御魂を意味する言葉であったからだ。正なる「サ」の影となるのが「サクラ」。神に例えればまさしく、和魂に対する荒御魂がサクラとなる。
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梨木平(其の三)

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遠野には梨の木平という地名が、今のところ分かっているだけで三か所ある。今回紹介するのは阿曽沼時代に建立されたという天台宗寺院である積善寺の後方、来内寄りにある梨木平。その梨木平を通って流れる沢を、梨木沢と呼ぶ。
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積善寺は阿曽沼時代であるが、現在の鍋倉山に城を移転したのが16世紀後半であるから、積善寺の建立もその頃であろうか。ただ梨木平から東に少し下ったところが、始閣藤蔵が早池峯に金が採れる事を祈願した伊豆神社の地であり、梨木沢にかかる橋が小田越橋であり、地名も小田越となっている。遠野の小田越は別に、早池峯の登山口も小田越という事から、梨木平は積善寺よりも始閣藤蔵・伊豆神社との関係が深いのだろうか。他の梨木平の地に結び付くキーワードは不動明王と早池峯、もしくは九州からの移転者が関係する事から、もしかして本来の梨木平という地名は九州から移転してきた者によって運ばれて来た可能性もあるのかもしれない。

福寿草

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今日の午後、久々にカメラを片手に外へと出てみた。恐らく咲いていると思っていた福寿草が、あちこちで咲いているのを確認した。
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やはり、陽当たりの良い場所には、福寿草の黄色が目立って咲いている。
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フキノトウも出ている筈だと探したが、見付けることが出来なかった。目に付いたのは、殆ど福寿草。
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春の初めに咲くのが福寿草だから、取り敢えず遠野の春の紹介になるのだろう。
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遠野の今

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今日の遠野は、雨が雪に変って、少々寒い遠野になっていた。昨日は暖かな日差しもあり、農村の方も田んぼには殆ど雪が消えていた。
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それでも山沿いの日陰部分には、わずかな雪は見える。
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畑には雑草が生えて来て、春の生命力を感じるようになってきている。
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山の頂付近を眺めると、陽当たりの良い場所は、かなり雪が融けているようだ。
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それでは綾織から、高清水山へと登る道路はどうなっているかと見に行ったが、ある程度は雪が融けつつあるが、やはり来月まで待った方が良いだろう。
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綾織から東禅寺方面へ行けるかと見に行ったが、やはりもう少し待った方が良いみたいだ。除雪車の入らない道路は、雪融けが遅い。
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3月の始めには、我慢出来ない釣り人が釣りの解禁と共に動き始めたが、気温も上がらず、そして例年と比べて、降雪量が極端に少なかった為か、川の水量が少なく、釣り人は難儀しているようだ。画像の様な小川の水量は普通だけれど、小烏瀬川や猿ヶ石川、早瀬川などは例年より少ない。去年も降雪量は少ない方だったが、今年はそれに輪をかけて少ないようだ。その代わり、桜の開花は早そうだが…。

枉津の神

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「古事記」によれば、伊弉諾が黄泉国から帰還し穢祓をし、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱の神が誕生した。また「日本書紀」の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)が誕生したとしている。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、"禍々しい"災厄の神とされている。本居宣長は、その禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比咩と同神としているのは、天照大神の荒魂であり、荒魂は祟る神、つまり厄災を及ぼす神であるという認識に基づいてのものであったか。

ところが古代九州において、川が海岸の沖積平野に入ると干潟の上を左右に屈曲蛇行する事を"枉津"と言ったらしい。海の塩気を帯びた船や人が枉津に入ると、身も心も清められると思われたという。「まがつ」という訓に「禍」をあてると「まがまがしい」となり、恐ろしいイメージが重なるものだが、神名に"禍"を当てたのは意図的なものであったのだろうか。

「まがつ」は地域ごとに訛りが加わり、変化したと伝えられる。「まがつ」を「わうず」と読めば、更に「うおつ」に転訛したという。それが更に「おほつ」となったが、琵琶湖の大津もまた枉津の変化であったようだ。天智天皇が都を大津京にしたのはもしかして、琵琶湖に鎮座する枉津の神を信仰していたからではなかったか。

新張の語源

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「遠野町古蹟残映」を読んでいて、新張という地名が載っていない事に気付いた。まあ新しい地名だろうという認識で、なんとなく「新しい縄張り」か?程度の認識であった。そんな時、たまたま「古事記(景行紀)」を読んでいると「新治(にひはり)筑紫を過ぎて幾夜か宿つる」と「にひはり」という言葉が登場していた。その「新治(にひはり)」を調べると「新しく開墾した土地」の意で、遠野の新張も、あてる漢字が違うだけで同じであろう。普段気にしていなかった地名が、意味を知るとイメージが広がるものである。まあこの新張は、だいたい予想通りではあったが。

不思議なゴースト

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逆光で撮影すると、よくゴーストが発生する。別にレンズフレアとも言うが、画角内に極めて明るい光源が存在する場合に生じる、暗部への光の漏れがゴーストと云われる。撮影していると邪魔なものだが、逆に意図的に逆光で撮影し、神秘写真として表現している人も多いようだ。そのゴーストだが、たまに見慣れないゴーストが写る場合が多い。画像の場合、稲荷神社の狐像を逆光で撮影した時、耳にゴーストが写り込んで、画像にアクセントを与えているかのよう。
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またこれは某稲荷神社の入口で撮影したものだが、虹のように写り込んだゴーストで、過去にこういう虹ゴーストは珍しいので残しておいた。
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この画像は白龍を祀る神社に、何故か狐らしき像があった。その像を逆光で撮影したら、画像の様な光の輪が写った。ゴーストに光の輪は多いのだけれど、このように密度が濃い光の輪は、初めて見た。
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そしてこれは、何度も紹介した事がある螺旋状のゴーストだ。大蛇が棲んでいたという伝説の樹木を逆光で撮影したものだが、この赤い螺旋状の光が、どうも蛇のとぐろを巻いた姿に見えるので、面白いゴーストだと思う。ただ、こういうゴーストを見たという人や情報は、未だに知らない。

渇水

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今年は積雪量が極端に少ない暖冬の年だった。その為か、いつもなら雪融け水で、それなりの水量を保つ筈の川が渇水傾向になっている。画像は、中沢川。中沢川の水量は、いつも少ない方だが、現在はまったく流れて無い流域もある。早瀬川などはいくつもの支流が合流するので、それなりの水量を保っているが、それでも例年より少ないようだ。
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これからの問題は、農業用水だろう。天気予報を見る限り、大雨が降るという事は無いようだ。せいぜい、お湿り程度の雨が降る程度か。まあ去年も暖冬で似た様な状況ではあったが、今年は更に輪をかけて降雪量が少ない。
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ところで中沢川の六神石神社寄りの川に、賽の河原の様に石を積んだ場所があった。何故、こうして石を積んだかわからない。ただ、この中沢川も去年の台風の名残が見て取れる。今でも両岸に水で押し流された木々の残骸などが散乱している事から、もしかして水神を鎮める為のものであろうか?

イヌフグリ

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イヌフグリが、沢山咲いていた。自分にとっては、雪があっても咲く福寿草より、小さな青い花のイヌフグリが咲く方が春を感じる。
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青笹の語源

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六角牛山の麓に、青笹と呼ばれる地名がある。昔は、青笹村であり、今では青笹町となる。「遠野物語拾遺3」に天人児の話と共に笹小屋を建てた事が青笹村の起こりと紹介されている。また別に「ものがたり青笹」によれば、ユキドウという神様を祀った時に湯立て神事があり、その神事に使用された笹を地面に挿したところ根が付いたのが裏も表も青い笹の葉であったという。それから青笹という地名になったと云う。昔は、緑も青と呼ばれた時代があった。ちなみに、ユキドウという神を祀る別当は佐々木氏という事である。

ところで「笹」は小さい竹の意であるが、「ささ」そのものの語源は、月齢三日の朔の月形の形容である。つまり三日月。どうやら笹の葉の形状が、三日月の形として捉えられたようだ。となれば青笹とは「青い三日月」の意にもなる。六角牛山の麓に、三日月神社があるのは偶然であろうか。太陽も月も東から昇るのだが、その東に聳えるのが六角牛山である。

青笹という地域は、河内川、中沢川流域を中心として開発されたとされている。ただその表現を変えて言えば六角牛山の麓の開発であり、過去に六角牛山に人が集まった事を示すものである。岩手県神社庁に伝わる伝承では、六角牛山は「おろこしやま」と記されていた。恐らく「お」は尊称の「御」であり、六角牛山の麓の開発は、山を崇め奉る人々が集まったものと思える。

「上閉伊郡誌」には、青笹では無く「青篠」と記されており、遠野村附之目録にも「青篠」とある事から、古くは「青篠」であったようだ。以前、六角牛(ろっこうし)は、佐々木系の六角氏(ろっかくし)から来ているのではないかと書いたが、その佐々木氏の発生は近江国蒲生郡「篠笥(ささけ)郷」を本拠としている。「篠」は「しの」とも読むが「ささ」とも読む。青笹の語源の伝承に、ユキドウ神を祀る別当が佐々木氏であるのも関係があるのかもしれない。

沖縄で「コイシノ」とは神子名であるが、意味は「越え渡る月」の意である。篠竹などとは言うが、本来の「しの」とは月の意であって、「竹取物語」の様に、竹は月との関係が深い。本来は青篠であった地名が青笹に変更されてはいるが、読みはどちらも「あおざさ」で良いのだろう。その青笹の地名の発生は、やはり六角牛山と月の信仰に大きく関わっているのだと思えるのである。

笛吹峠の今

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「遠野物語」にも登場する魔物が出るとされた笛吹峠。その笛吹峠が去年の台風の影響から、未だに通行止めになっている笛吹峠。その笛吹峠の現状がどうなっているか、よくわからないので行って確認してみた。
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笛吹峠には、通常の県道35号遠野・釜石線を行くのだが、土淵から貞任山の手前から林道を通って笛吹峠に合流するルートもある。取り敢えず、貞任山方面・和山峠方面へと行って見た。
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年にもよるが、雪で通れない場合もままあるが、今年は降雪量が少ない為、道路には雪をみかけない。とにかく水芭蕉の群生地手前を笛吹峠方面に行って見るが、林道の雪はどうだろうか?
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通行止めの看板は、脇にずれているので行けるのかと思った。
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暫く進むと、山の現場事務所の手前の道が崩壊していた。
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道がえぐれているというか、完全に穴が開いている状態だ。普段はめったに人も車も通らない道なので、復旧はかなり後回しになるだろう。
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それでは本来の笛吹峠はどうなっているのか、確認しに行った。通行止めにはなっているが、車の出入りを確認したので、どの辺が通れないのか見に行って見る事にした。
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落石防止の為か、衝立の様なものが設置されている。
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ひしゃげたガードレールの姿を見ると、凄まじい水の力を感じる。
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被害が酷いのは、やはり沢に面した場所の様だ。
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沢ごとに表情は違うが、沢に台風による雨水が集中して土砂を大量に流したという事は理解できた。
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車はどこまで行けるのか?と恐る恐る車を走らせていたが、笛吹峠の頂を過ぎ、青ノ木方面にさしかかっても、まだ進める。
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もうすぐ青ノ木の公園だなぁと思ったら、ここで道路の崩壊場所に到達した。この先はわからないが、恐らくこの箇所の道路を復旧できれば、笛吹峠の開通がなるのではないか。釜石方面から青ノ木の溶鉱炉跡までは行けていると聞いたから。途中も道路が新たに舗装された様な箇所もあったので、去年から地道に復旧し続けているのだろう。簡単には言えないが、2か月以内に笛吹峠の開通が出来るのではないだろうか。
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峠から見下ろした川の流れは、いたって普通の様。土砂で塞き止められているようでもなさそうだ。峠の道路以外は、取り敢えず日常の笛吹峠のようである。

早池峯への祈願

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早池峯神社に訪れる人が、年々増えて来ている気がする。しかし、その最もたる理由が座敷ワラシの幸運をもたらすのでは?という淡い期待からの様だ。座敷ワラシが入ると、その家は繁栄すると云われて久しいが、最近では良縁や、もしくは僅かな幸福を期待してのものの様。
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今回のお客さんも、最近訪れた不幸を振り払いたい期待を持っての早池峯神社参詣であった。
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車で無いと、なかなか参詣出来ない早池峯神社。路線バスも無くなり、自分の宿を頼って来た客を早池峯神社に連れて来るのは、自分も何度も訪れたい早池峯神社であるから苦にはならない。
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不動明王が光による陰影によって、その威厳を誇示しているかのように見えた。
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途中に寄り道した、地蔵岩。
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河童淵の、三体の河童像を撮影するお客さん。背後に聳えるのは、天ヶ森。これも定番コースとなってしまった。去年は、NHKワールドの番組と、NHKのBS放送番組にも協力したのは、このブログがあっての事だった。

今年のゴールデンウィークは暇なので、桜をのんびり撮影して過ごそうか。

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今年のゴールデンウィークは、まったく予約が埋まらないので、どうやら暇が確定だ。となれば、のんびり桜の撮影で過ごす事にしようか。
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桜の開花は、今年は早いのでは?とされたが、一昨日に大洞の山桜を見に行ったが、蕾状態になっていたので、これから咲くとすれば例年並みになるのだろう。つまりゴールデンウィークは、満開の桜を観る事が出来るだろう。
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蕾であるが、明日の26日は雨。しかし27日以降は、晴れ間も続き、気温もそれなりに高いので、開花は27日以降だろうか。北上は桜が咲いていたが、遠野に通じる峠ではまだだった。田瀬の周辺は、桜の開花が早いので、もう咲いているかもしれない。遠野の街は、やはり27日以降だと思う。

カタクリの花、食べる。

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この時期は、あちこちにカタクリの花が咲き乱れる。片栗粉は、今ではジャガイモから作られているが、本来はカタクリの花の根から作られていた。毎年この時期になると、カタクリの花を採りに行く。数か所、カタクリの花を採りに行く場所があり、毎年ローテーションを組んで、採りに行っている。その為か、カタクリの花が例年より減ったという感覚は無い。むしろ増えたんじゃないか?と思えるほどだった。
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採って来たカタクリの花は、水に漬けて泥を落とす。
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カタクリの花の根の部分はデンプン質の為、食べるとほんのり甘い。基本的には"おひたし"なので醤油をかけて食べてもいいけれど、なるべく何もつけないで、そのまま食べて、カタクリの花を味わって欲しい気もする。

これから山菜シーズン突入なので、これからはどこでも献立に、山菜が登場するのだろう。

グーの桜、咲いた。

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去年の4月11日に16歳半で永眠したグー。遺体は遠野の火葬場に持って行き、火葬をした。そしてグーの遺骨は、桜の苗木を買って来て、鉢の中に入れてから桜の苗木を植えたのだった。
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それから約1年たって、数日前に桜の花がほころび始めたと思ったら、今日4月28日に満開になっていた。やはり一番長く生きたグーに対する想いは、かなりあった。グーの性格から、もしかして化け猫になるんじゃないか?とも思ったりもした。だが結局グーは化け猫にはならなかったが、こうして桜の花に化けて登場してくれたことを感謝したい。
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この鉢植えの中に、グーの遺骨が眠っている。

2017年、座敷ワラシ祈願祭

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今年もまた、座敷ワラシ祈願祭が執り行われた。毎年十体づつ増え続ける座敷ワラシ人形であるから、本殿には全ての関係者が入りきらない為、去年は急遽、二回に分けて祈願祭が行われたようだった。今年は当初から、10時と12時の二回に分けて行われる事が事前に伝わっている為か、極端な人の殺到は無かったようだ。
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10時からの祈願祭に参加する人達が次々と、本殿内部に入って行く。
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去年の9時過ぎには、殆ど埋まっていた駐車場が、今年はまだ半分以上空いていた。
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座敷ワラシ人形を手に入れて、人は何を期待しているのか?平成初期はまだ、この早池峯神社の座敷ワラシ祈願祭は広く認知されず、正月に座敷ワラシ人形を買い求めた人は、売れ残っていた二体の座敷ワラシ人形のうちの一体を購入出来た。恐らくバブル崩壊以降だと思うが、世の中が不景気になって、藁にもすがる思いで座敷ワラシ人形の噂を聞き付け、人々が集まった気がする。

座敷ワラシが家に入ると、その家は繁栄し、出て行くと没落すると云われる。しかし、座敷ワラシ祈願祭に集まる方々は、不幸続きの日常からの逸脱を求める者。また良縁を求めるとかなどの僅かな幸運を求める異種違いにもなっていたり、妖怪好きのアイテムにもなっているよう。そして接した人々の中には、他にも縁結びの卯子酉神社や、一生に一度の願いを叶えるという能傳房神社、長者に成れると云う、小高い岩山の白山様に登って祈願を併用する方々も又いる。とにかく、あらゆるものにすがる想いで集まっているようだ。
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