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撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神の荒魂)

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折口信夫は天照大神について、下記のように述べている。

貴(ムチ)は女神の接尾語であり、"ひるめ"は日之妻(ヒヌメ)で、日神の妃と
いふことになる。神聖なる神女の地位を言ふものである。太陽神を女性とす
る神話も、他民族には例があるから、不思議はないが、日本の場合は日の
神とヒルメとには、対偶神としての存在を示す信仰があった。

対偶神という言葉が適切かどうかは別にして、折口信夫の見解を当て嵌めれば、大日孁貴神とは日神の妻と云う立場になろうか。そして、それを裏付けるかのような資料が、鎌倉時代に成立した「御鎮座次第記」であり、それには下記の様な事が記されている。

「伊弉諾が左目を洗って天照大神の荒魂の荒祭神大日孁貴神を生み」

これをそのまま信じて良いかどうかは別として、この「御鎮座次第記」によれば、荒祭宮に祀られる神とは大日孁貴神であり、天照大神の荒魂とされる。また別に内宮所伝本「倭姫命世紀(天照皇太神荒魂)」の項にも、下記のように記されている。

「左目を洗ひて日天子大日孁貴を生みます。

        天下り化生ますみ名は、天照皇太神の荒魂荒祭神と曰す也。」


大日孁貴神とは即ち、天照大神の荒魂と伝えられている。その荒魂を祀る荒祭宮では現在、瀬織津比咩という神名が祀られている事実がある。大日孁貴神が荒魂であるなら、荒魂と呼ばれた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは?

原初的な信仰は、彦神と姫神の二柱を祀るのが基本であったようである。ヒルメが日の神妻なら、ヒルコが日の神という事になるのは、陰陽の関係でも明らかである。例えば、天照大神と素戔男尊の誓約の場面で、男神五男神と三女神が誕生しているのは、陰陽の和合とされている。陰陽は、日(火)と水で表され、陰陽五行における火の方位は南であり夏を意味し、色は赤となる。その対極となる水の方位は北であり、冬を意味して、その色は黒色となる。604年に制定された冠位十二階の最高位の色は紫で、この場合は赤色と黒色を混ぜたものとしたのは、陰陽の和合を意図したものである。

北沢方邦「天と海からの使信」で、宗形三女神が誕生した剣は、神武天皇が手にした布都御魂剣と異なり、雌の剣である事に注意すべきだと述べている。剣は所有者の荒御魂とされるが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面では、素戔男尊の剣を手にして噛み砕いて誕生したのが宗像三女神であるが、この場合の所有者は素戔男尊であったのか天照大神であったのか。しかし、男神五柱誕生させた素戔男尊が勝利したとの見方から、明らかに天照大神の手にした剣は、天照大神の荒魂を宿したものであると考えられる。天照大神が素戔嗚尊の十握劒を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息吹の狭霧から生まれた神が宗像三女神であると。それはつまり、天照大神の荒魂から誕生した三女神と考えられる。
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「梁塵秘抄」に、下記の歌が詠われている。

関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、

        安房の洲、瀧の口や小(野・鷹)、熱田に八剣、伊勢には多度の宮

伊勢の多度の宮が軍神と呼ばれた所以は、平氏にあった。伊勢守であった平氏一派は勢力を拡大して、伊勢平氏と呼ばれる様になり、その極みは平清盛であった。だが厳島神社を信仰した伊勢平氏の以前の信仰の拠点は、伊勢に鎮座する多度神社と多度神宮寺であったが、本来はその背後に聳える多度山であり、それは伊勢平氏の祖霊の静まる霊山と考えられていた。その多度山に斎く神は、多度大神とも呼ばれるのだが、かって祟り神として猛威を振るったとされている。現在の多度大社に祀られる祭神は天津日子根命で、天照大神と素戔男尊との誓約によって生まれた男神五柱のうちの一柱であるのだが、荒ぶる神とのイメージは皆無だ。

ところがこの多度の地は、元伊勢と呼ばれていた。それは崇神天皇時代に、天皇を祟った神として天照大神を出し、滝宮に斎く間に約40年間彷徨い、一時的に斎いだ地の一つが、この多度の地であった。崇神天皇を祟ったという本来の神は、天照大神の荒魂であった。近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め流離ったとされる旅のメンバーを見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る40年間に、各地を荒魂を先鋒として平定し続けた旅であったのだろう。それ故に、多度の地にも訪れた天照大神の荒魂であったからこそ、軍神として梁塵秘抄にも歌われた。しかし祀られているのは天津日子根命であるのだが、恐らく流離の旅の途中、平定した地に神社を建立し、天照大神と素戔男尊の誓約によって誕生した神々を祀っていったのではなかろうか。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神という可能性はあると思える。

実は、福岡県に榊姫神社がある。その神社の由来によれば、平資盛の女で、榊内侍と呼ばれた榊姫を祀るのだが、「遠賀郡誌(下巻)」によれば、旅の途中病で倒れた時に、付き添った平家の老女に榊姫は、こう言われた。

「我邦は神の御国、特に伊勢の太神の御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉りて、姫の御名に縁あれば、一心に此御神を祀り玉はむには、などか此難病をも、平癒せさせ給はぬ事やはある。疾く祈願し給へと説き勧めければ、姫も宣なりとて、賢木を根抜きとりて之に木綿して掛けて、朝夕老女と共に拝祈し給ひけり。」

これによれば、"伊勢大神の神名"とは、"撞賢木厳之御魂天疎向津媛命"であるという事。田村圓澄の調べたデータに照らし合わせても、日神と伊勢大神とは別の神という事になる。日神を天照大神に比定すれば、伊勢という冠名が付く伊勢大神であろう撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が本来の土着神であったという事か。仁安3年(1168年)頃、平清盛が厳島神社の社殿を造営し、大規模な社殿が整えられた。その後にも平家一門の参詣があり、厳島神社は平家の氏神となった。しかし多度大神を信仰していた伊勢平氏が新たな神を信仰したわけではなく、本来の天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の信仰を厳島に迎えたといのが正しいのではないか。厳島明神は、古くは龍女の化身と考えられていたが、それを宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命とする事で、周囲の目を誤魔化したのでは無いか。厳島は神を「斎(イツキ)祀る島」と認識されていたのだが、それならば何故「斎」ではなく「厳」という漢字を使用したのか。それは恐らく、撞賢木"厳"之御魂天疎向津媛命の「厳」を含ませる事によって、本来信仰する天照大神荒魂を祀っているという意志表示ではなかったか。

三浦茂久「月信仰と再生思想」によれば、多くの事例から「天さかる向かふ」という表現は、天を離り極みに向うという形容で、天空を移ろう月や、月に棲むタニクグが天際に渡り行く事に対する常套句であるという。それはつまり「月が空を西に去って行く」事だと述べている。そして撞賢木は、神籬であろうとしている。今でこそ榊は、神の斎く樹木とし認識されているが、東北に於いての榊の自生は無い為に、イチイの木が代用されていた。厳島神社の神楽の古くの記録は1177年で、平家滅亡後の記録でしかないようだ。しかし為政者が変わったとして、神楽そのものの内容が変わるわけでは無く、神楽の儀は、まず榊に神を降ろす神楽から始まる。榊を神籬とする、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を思わせる神楽であると思われる。
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撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名が月に関わるものだと理解出来ればもう一つ、神功皇后の存在が気になる。神功皇后の別名が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)とも気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)とも、もしくは大帯比売命(オオタラシヒメ)とも記される。この別名に含まれる"タラシ"とは、月の満ちる様の表現であるようだ。そして神功皇后は、塩盈珠・塩乾珠という、潮の満ち引きを自在に扱える霊玉を駆使するという、まさに月の引力を扱う月の巫女の様な存在に思える。その神功皇后が仲哀天皇を祟る神を占い、真っ先に神名を呼ばれたのが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。陰陽として、日神の対になるのは、水を彷彿させる月の神であらねばならぬ。「古事記」を読んでも、本来の祭りごとは夜に行われた。神々の時間帯は、太陽が沈んでからであったのを考えても、本来の主役は日神では無く、月神であった筈だ。太陽暦が導入されたのが持統天皇時代であった事から、それ以前は太陰暦であったよう。

この前「竹取物語」に関係する本を読んでいたら、かぐや姫の罪は処女懐胎であると書かれていた。これは、太陽の光を浴びて妊娠するという話で、キリスト教圏の逸話も導入し展開していた。どうやら、かぐや姫を太陽信仰と結び付ける為に書かれた本であった。しかし、民俗学的には日本において月を見て孕む兎の話の他に、月を見ると孕むという禁忌はよくある。太陽では無く、月の満ち欠けが妊娠をイメージさせる為だ。神々についても、「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野三所権現は、本宮の大湯原のイチイの木の梢に、三枚の月の形になった天降ったと語られ、宇佐八幡においても、満月の輪のごとく示現したと語られている。神の降臨は、夜に輝く月にこそあったという事。撞賢木厳之御霊天疎向津媛命こそが本来、古くから日本で信仰されていた神では無かったか。それが太陽信仰の普及と共に消されてしまったのかもしれない。まだまだ書きたい事があるが、今回は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に関係する事を簡単にまとめてみた。

瀬織津比咩の登場する漫画

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たまたまAmazonで見つけた、中古の少女漫画を購入し読んでいたら、遠野が舞台になった。あれ?と思ったら、瀬織津比咩が登場してきたよ。場面、場面で見た事のある場所が登場し、地元民としては目が離せなくなってしまった。目が離せないというのは、どう描かれているのか?間違いは無いか?などという、期待とあら探しの混雑したものだった。まあ、この漫画は主体が別のところに置かれているので、遠野も瀬織津比咩も味付け程度に描かれているだけ。
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早池峯、猿ヶ石川と、遠野の山や川が登場すると、やはりどこか嬉しい。
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お約束通り、座敷ワラシみたいな人物が登場し、遠野を説明する。
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小友の岩龍神社も登場し、ここにも瀬織津比咩がいた可能性を示唆しているところがあるが、なんか自分のブログを読んだのか?と思ってしまった。
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少女だと思っていたら、少年だった。
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そして、滝の精の様な女性も登場。実はまだまだ連載中で、この遠野編の結末はどうなるのか?アラハバギも結び付けてストーリーは展開するようなので、個人的には目が離せなくなる。取り敢えず、続きを期待して待ってよう。
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遠野物語の発生

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最近、空き家・廃屋調査が行われていた遠野市であったが、少し山に入ったところにも、画像の様な廃屋を見かける事がある。画像の建物内部に入ってみると、アナグマが巣食っていた。今はどうかわからぬが、遠野小学校へ行く途中の歯科医院の空き家にも、アナグマは巣食っていた。こうして人の住まなくなった家には、野生の獣が住みつく場合が多いのだが、特にそれはアナグマの場合が多い気がする。知人の家の小屋にも、知らない間にアナグマが巣食っていたと聞く。
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山中で遭遇するアナグマは、画像のように寄って撮影しても、慌てて逃げようとはしない。ある時は、平気で自分の脇をすり抜けて行った時もあるほど、遠野ではアナグマほど人間を恐れない獣はいないのではなかろうか。気性もイタチ系らしく激しく、熊と遭遇しても熊を追い払う程の気性の持ち主がアナグマである。人間が寄って来た程度では、気にもかけないのかもしれない。
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上郷町の曹源寺は、「遠野物語拾遺187」の舞台でもある。ここでは化物貉として登場しているが、そもそも貉は狸似ているが、狸では無い獣として認識されていた。「ムジナかタヌキか、タヌキかムジナ」と、動物の体系が定められていない時代のアナグマは、タヌキと同一のものか、その変化した存在という見方もあった。曹源寺には今でも貉堂があり、貉大権現として、アナグマは神に昇格していた。
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先に書いた様に、何故か空き家・廃屋にアナグマが棲みつく場合がある。恐らくそれは廃寺となった寺院でも同じなのだろう。遠野の寺院の歴史を見ても、一旦は廃れてしまった後に、ある和尚によって再興されたという寺は意外に多い。その廃れた時期に、こうしてアナグマが貉として棲み付き、遠野物語に登場するような、不気味な話として作られ語られる場合が多かったものと思える。人を恐れぬ貉(アナグマ)は、格好の不気味な妖怪モデルとなったのだろう。「遠野物語」には掲載されていない話の中にも、貉の登場する話は多くある。また、東禅寺の和尚であった無尽和尚の母親は貉であったとの伝説も伝わる事から、古くから廃寺などに棲み付いたアナグマの姿が目撃され、こうした話が創作されたのだと思う。

わが爪に魔が入りて

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わが爪に魔が入りてふりそそぎたる月光むらさきにかゞやき出でぬ

きら星のまたゝきに降る霜のかけら墓の石石は月光に照り

本堂の高座に説ける大等のひとみに映る黄なる薄明

                        宮沢賢治
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宮沢賢治が14歳の頃、旧制中学の先輩だった石川啄木「一握の砂」に触れ、文学に目覚めて歌を詠み始めた頃の歌だという。宮沢賢治は学生時代、寺に下宿して文学書や宗教書を読み漁り、夜には寺の本堂の縁側で月を観ながら物想いに耽っていたというが、学生時代は特に幻想的な面に魅かれる為、こういう歌を詠んだのかと思った。

ところで気になったのは「爪に魔が入りて」という表現だが、爪には"爪半月"という箇所がある。その爪半月が無いと不健康などという迷信の他に、その部分が黒ずむと、いつか死ぬという迷信を子供の頃に聞いた事がある。実際に子供の頃、爪に棘を刺した事があり、その部分が黒ずみ紫がかった見えた。もしかしてだが、"月の紫に輝く"と"爪(爪半月)の魔"をかけて死に結び付け、神秘的な表現にして遊んでいたのじゃなかろうか?表現的には、上田秋成「青頭巾」の最後の場面を彷彿させる。

河童と傀儡と瀬織津比咩(其の九)

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遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。

昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。
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どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。

ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
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久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。

壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。

「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」
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月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。

むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。

物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。

河童と傀儡と瀬織津比咩(其の十)

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水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」

上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。

「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」

多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。

八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。

伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。
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木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。

近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。

多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。

三女神の別れの前の晩の地へガイド

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遠野の三女神が、各山々に別れる前の晩を過ごした場所を取材したいという人物を案内してきた。
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その前にと、先に早池峯神社へと参拝する事にした。昨夜から降った雪で、遠野は薄っすらとした雪景色となっている。
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境内では、一生懸命雪搔きしている関係者の姿が。
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少し前は落葉で色付いていた地面が、真白に変っていた。
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ただし、週明けはまた気温が上がるというので、この雪も溶けるのかもしれない。
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とにかく、参拝を済ませた。
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目的の場所は、重端渓沿い。冬季は閉鎖になる道路だが、まだこの程度の雪じゃ、閉鎖にはなっていないだろうと進む。目的の林道入り口も、どうにか行けそうなので、車でいつもの場所まで侵入してみた。
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車を置いて歩くと、さっすく目的地が確認できた。これが夏の緑に溢れる時期だと、もっと見え辛いのだが、緑が枯れた冬は見つけやすくなっている。
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大型カメラで撮影しようとしているが足場が傾斜地の為に、かなり難儀しているよう。
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苦労しつつも、何枚か撮影した様子。この場所の撮影は、午後だと逆光になる為、午前中がベスト。雲は多かったが、その合間から時より、明るい日差しが降り注いでいた。

河童と傀儡と瀬織津比咩(其の十一)

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風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。

八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。

長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。
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剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」

櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。

現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。

それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」に「櫛田神社在肥前国神埼郡 祭神一座 大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。
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この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。この蒲池比咩は、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。瀬織津比咩は天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。

更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。

河童と傀儡と瀬織津比咩(其の十二)

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福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。

人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。

「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。

実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。
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「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。

「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。

大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。

【獣類】

「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、
おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、
山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、
鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」

だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。

河童と瀬織津比咩(其の十三)結

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画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。

実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。

平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。
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ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。
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遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。

遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。
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「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を1年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。

ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。

八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比咩神是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比咩こそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。
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奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比咩である。日下部吉見神でもある瀬織津比咩には、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。

申年も今日で、お終い。明日から、酉年です。

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今年は更新がスローテンポとなり、何となく自分自身の老いを感じた年でもありました。まあ、若くなることは無いので、来年も無理せず年相応のマイペースでこのブログを更新していきたいと思います。それでは皆さん、良いお年を。
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あけましておめでとうございます。(2017.01.01)

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今年も、早池峯神社参拝から始まる新年を迎えました。
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今年の遠野は、殆ど雪が降らない暖かい冬になっています。それでも遠野の街より標高の高い早池峯神社の辺りは、若干の雪が残っている状況。早池峯神社まで続く道路も、カーブには雪が残っていて、そこだけ慎重に運転すれば大丈夫。
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【罰当り行為(境内での立ちション)】

参拝を済ませてから戻る途中、早池峯神社で樹齢千年を超す、座敷ワラシが覗いていたとの伝説も伝わる一番の古木に、何やら男が密着している。何をしているんだろう?と見ていると、最後にプルプルと振るっていたので、立ち小便をしていた様。すぐさま注意したのだが「トイレがわからなかったので…。」と言うと、遠野ふるさと学校の方へと歩いて行った。注意した時に、そのまま一枚パシャリと撮影したのが上の画像。

隣の遠野ふるさと学校の駐車場に停まっている車の台数と、早池峯神社に参拝に来ている人の数が合わないので、初めから早池峯神社ではなく、遠野ふるさと学校に来た人物であったよう。隣の敷地からは、単に山の中の林にでも見えたのだろうか?ただ普通に人の敷地内での立ち小便は、軽犯罪法違反。しかし自分には、注意程度しか出来ない。熊野大神は瀬織津比咩とも云われるが、その熊野大神は浄・不浄を問わないとする神であるのは、穢祓の神でもあるからだろう。しかし大胆にも、その穢祓の神の境内の神木に不浄をふりかけ、直接穢祓をしてもらえるこの人物は、かなりの贅沢者でもある。まあ最終的判断は、早池峯大神が決める事になるのだろう。ただ早池峯の神は祟り神なので、自分にはこんな罰当たりな真似は出来ない。ただそれを直接目にしたので、酷く気分を悪くしたまま、早池峯神社を後にしたのだった。本当に正月早々…。

稲荷穴や、その他の確認。

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元旦の日、先に盛岡の早池峯神社参拝の後、馬越峠を通って、遠野早池峯神社に参拝する予定だった。その途中、フト去年観光客に言われた言葉が頭を過り、寄り道する事にした。その観光客の言葉とは「稲荷穴が進入禁止になっていました。」というものだった。それを確認する為、少し寄り道してみた。稲荷穴の在る地に湧く水は、日本銘水百選に選ばれており、ポリタンクを持って水を汲みに訪れる人がかなりいたのを覚えている。今回は正月元旦に足を向けてみたが、人気は全く無かった。もしかして稲荷神社もあるので、参拝客でもいるのかと思ったが皆無だった。
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ここの稲荷神社の狐像は、相変わらず怖い顔をしている。
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それで肝心の稲荷穴だが、表面上は何も変わっていないように見えた。
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ただ内部を確認すると、柵が設けられており、施錠がかけられていた。確かに、侵入できなくなっていた。以前は、稲荷穴にも観光客を連れて、内部探検をした事があるのだが、時代と共に行けなくなった場所も、この稲荷穴の様にいくつか出て来ている。これも時代の流れなのだろう。
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ものはついでに、馬越峠を下った途中にある自然石のベットも久々に確認した。薄っすらと、白い雪がシーツ代わりにかけられていた。かなり以前に、アテナというAV会社にこの石の存在を教えたが、撮影したのだろうか?
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稲荷穴を経て、馬越峠の頂から遠野側に下ると、この自然石のベットの他、「目洗い石」、不気味な音を出す「音岩」、「人間蟻地獄」、「河童淵」、他に「遠野物語」に登場する場所や神社などの見どころ多数なのだが、今回気付いたのは、恐らく道路工事の関係だろうが、音岩が無くなっていた。ただしこれらは、遠野観光マップにも掲載されていないものだが、ある意味貴重な場所でもある。自然石のベットも道路工事の関係で、今の場所に移動された経緯がある。馬越峠という名前から、昔は車の通れない峠だったが、今の峠は新道でもある。以前の馬越峠の旧道には、達曽部側に権現岩というのがあり、その岩を拝まないと、普通に通れないなどという言い伝えがあった。自分が中学の頃は途中まで自転車で行き、獣道みたいな峠なので自転車を乗り捨てて、歩いて馬越峠を越えて、稲荷穴まで行った事がある。今では、懐かしい思い出だ。その道程も、今と昔では、かなり変ってしまった。ひして、今後も変わるのだろうか?

稲荷穴の蕎麦屋の思い出。

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久々に稲荷穴を訪れて、目に付いたのが"手打ち蕎麦"の看板だった。思い出すのが平成初期の頃、今から20年以上前の時だった。観光客二人を連れて、美味しいと評判の手打ち蕎麦を食べに、わざわざ稲荷穴まで行って見た。

稲荷穴には、二軒の蕎麦屋があった。入口から手前の蕎麦屋は、商売してますよという風体の蕎麦屋であった。今回食べようと思っている蕎麦屋は、それよりも奥に佇む、爺様と婆様二人でやっている古い民家を利用した蕎麦屋だと聞いていた。どこかな?と迷っていると、子供連れの女性客、その蕎麦屋らしきに入ろうとしている。

女性客「すみません。お蕎麦、食べたいんですけど。」

爺様「食べたかったら、中に入ればいいじゃないか!」

外まで響く大きな怒鳴り声を上げる店主の爺様。女性客は、怯えた様にただ「はい」と言って中に入ろうとした。

女性客「あのぉ、どの部屋に行けばいいんですか?」

爺様「空いている部屋に入ればいいだろうが!」

この民家らしき蕎麦屋には、玄関から廊下沿いにいくつか部屋があった。確かに勝手がわからない人にとって、どの部屋に入ってよいか迷うのだと思う。自分達は、この子供連れの女性客の後を付いて行くだけだったので、非常に助かった(笑)とにかく大声で怒鳴る爺様だったので、気の弱い女性であるなら、怯えるか逃げるかするのではなかったか。

暫くすると、子連れの女性客が注文した蕎麦が出来たようだ。

爺様「出来たから、早く持って行け!」

再び怒鳴り声をあげる爺様。

女性客「は、はい!」

緊張して驚いたような返事をする女性客。

その後に、自分達の注文した蕎麦が出来た。そば粉10割の蕎麦の為か、すぐにちぎれるような蕎麦だった。美味しいと評判を聞いて来ては見たものの、味に関しては、まあこんなもんかという程度で観光客の意見と一致した。ただ値段が安かった。例えばコーラが売っていたが、その当時喫茶店や食堂では150円から200円で売られていたコーラ瓶が80円という、殆ど卸値で販売していた。蕎麦もまたその時代の蕎麦屋の半値くらいで売っていた。まるで明治男のような頑固な怒鳴り声を上げる爺様も、その時代には貴重な存在で、蕎麦の値段も含め、一昔前にタイムスリップしたかのように感じたものだった。恐らくその当時で70歳程度の爺様であった筈だから、もうこの世にはいないのかもしれない。稲荷穴の手打ち蕎麦の看板を目にして思い出すのは、蕎麦の味では無く、あの爺様の怒鳴り声であった。

鳥の雑文

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酉年という事で、鶏などについて雑文をば少々。ニワトリというと、夜明けを知らせる鳥として有名となっている。昔話で、鬼などの魔物に襲われていても、ニワトリの鳴声によって夜明けが近い事を知ると、魔物たちは慌てて逃げていく様が、よく描写されている。夜明けを嫌う者は西洋になると、吸血鬼になるのだろうか。太陽光線を浴びると、身体が崩壊するのだと、子供の頃によく見た吸血鬼の映画で認識している。しかし、西洋の吸血鬼映画にはニワトリは登場しない。考えてみれば吸血鬼映画とは、基本的に吸血鬼退治映画であるから、前もって日の出を知らせるニワトリは邪魔な存在になってしまうのかも。
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とにかくニワトリの鳴声は、朝を知らせる。それを利用して魔物を撃退する物語は、どこかでホッとするものだが「伊勢物語」では、そのニワトリの鳴声を口実に、まるで魔物から逃げるかのように女から逃げる男を表現している。しかし、女の歌を知ると、その女は確かに魔物であったかのよう。

夜も明けば水桶にはめなで腐鶏の まだきに鳴きてせなをやりつる

(夜が明けたらこの腐れ鶏を水桶にぶちこんでやろう! この鶏が夜も明けないのに、あんなに鳴いてあの人を帰してしまったから。)

逃げた男とは、色男で有名な在原業平であった。どうやら、田舎女に興味を示したものの、"用を済ませた"ので早く立ち去りたい在原業平が意図的にニワトリを鳴かせたようにも思える話である。上の歌は、女の気性の激しさは、まるで正体を隠す魔物の様。話を変換すれば、在原業平が知恵によって、魔物から逃げた話にもなり得る。ところで田舎とは陸奥国なのだが、この田舎の女が在原業平に恋い焦がれ詠んだ歌が、下記の歌。

なかなかに恋に死なずは桑子にぞ なるべかりける玉の緒ばかり

(なまじ恋焦がれて死ぬよりも、いっそ夫婦仲の良い蚕になった方がまし。蚕の命は短いけれど…。)

蚕は虫であるから人間より寿命は短いもの。ここで気になったのは、"夫婦仲の良い"と詠っている事だ。もしかしてだが、オシラサマの話が伝わってのものではないかと勘繰ってしまう。オシラサマの話は、若い娘が許されない恋心から白馬と共に、天に昇る(死んでしまう)という話だが、生前は確かに若くしての死であるから寿命は短いと思われている。もしかしてこの時代にオシラサマの話は、陸奥国に留まらない形で広まっていたのだろうか。
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再び「伊勢物語」になるが、雁の鳴声を娘の心情(実は母親の心情)に重ねている歌がある。

みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる

(三吉野の田の面に降りている雁でさえも、ひたすらあなたに慕い寄るという気持ちで鳴いております。娘も同じ心であなたを頼りにしておりますよ。)

雁の鳴声さえも総動員して、身分の高い在原業平を引き留めようとする歌だが、生粋の女好きの在原業平は、一人の女に留まる事が出来る筈も無く、ただ渡り鳥の雁の様に去って行く。ここでは鳥の鳴き声を、どう捉えるかだが「伊勢物語」は在原業平の女性遍歴の作品みたいなものだから、鳥の鳴声=女の泣声にも感じてしまう。その前に、泣くという行為そのものが、男よりも女に与えられた行為の様で、男も泣くは泣くのだが「男なら泣くな」という言葉が、かなり昔から伝わっている様に、逆に「女なら泣いても良い」という認識があったのだろうと思える。だからこそ、鳥の鳴き声は女の泣き声に重ねて表現しているのだろう。
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角田川(隅田川)で船に乗った在原業平は、白い鳥を見て船頭になんという鳥なのか聞く。「これなむ都鳥」と聞いて、なんと京の都にいる二条の后を思い出す。都鳥とはユリカモメの事だが、その都鳥の白い肢体から妻を連想する在原業平は、さすがとしか言いようがない。また、鶉(ウズラ)も登場する。それは別れ際に女が鶉になるという歌を詠んだ。

野とならば鶉となりてなきをらむ 狩にだにやは君来ざらむ

簡単に言えば、別れたとしても鶉になれば、今度は狩としてあなたが来てくれるかという切ない望みの歌で、まあ作者が在原業平であるから、脳内が鳥だろうが花だろうが、「伊勢物語」は、全て女に結び付けて作られている作品である。まあ鳥と言っても、ここで鷲とか鷹が出て来たなら、それは女より男を連想すると思うので、作品上猛々しい鳥を登場させないようにしている。少し気になったのは、鶯の花の歌のくだりだった。

鶯の花を縫ふてふ笠もがな ぬるめる人に着せてかへさむ

鶯の花を縫ふてふ笠はいな おもひをつけよ乾してかえさむ(返歌)

濡れる人を"思ひ(思火)"という炎で乾かそうというやり取りだが、月形半平太の有名なワンシーンを思い出した。思い出したと言っても、小学校の時に買ったかくし芸関係の本に、有名なセリフのくだりがいくつかあった中の一つが、この月形半平太のワンシーンのセリフを未だに何となく覚えているので、ちょっと書いてみよう。

雛菊「月様、雨が…。」

半平太「雛菊か。花を散らす心無い雨よのぉ…。」

雛菊「鶯の羽が濡れましょう。」

半平太「雛鶯か」

雛菊「帰りましょうか、もし。」

半平太「春雨じゃ、濡れて行こう。」

このワンシーンで、恐らく雛菊と雛鶯をかけているのは、最後に"思火"で乾かすという意味を含んでいるのではととっさに思ってしまった。もしかして月形半平太のこのシーンは「伊勢物語」から来ているのかなぁと。とにかく、鳥と女性が、よく結び付けられているのが「伊勢物語」であった。そういや、家の婆様も酉年だったなぁと、何となく思ったりもする。

遠野不思議 第八百五十一話「鎌倉のねんずみ」

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からすぁ母親(あっぱ) 何処行った 万庶越えで 荘越えで 

麹(こおずけ)買えに 罷(まが)った 何升 麹買って来た

四升(すしょう) 麹買って来た

師匠(すしょう)どんの上臈は 神の前で孕んで 仏の前で坊産(な)すた

その坊の名は何と申します つくつん太郎と申します

つくつん太郎の御厩さ なんぼ馬ぁ 買え込んだ

四十六疋(すじゅうろっぴき) 買え込んだ

どの馬の毛色(けえろ)が良(え)え 油めって 照らめって

中の馬の毛色が良え 毛色の良え馬さ

貝に反った 鞍置えで 何処まで乗ってった 鎌倉まで乗ってった

鎌倉のねんずみは あんまり悪い ねんずみで

仏の油ぁ し盗んで 前髪(めぇがみ)にべったぁり 

後髪(うつしよがみ)に べったぁり

京の町に立ったれば 犬にワンとほえられで

明日の町に立ったれば 猫にニャンとえがまれだ

犬殿猫殿許しぇんしょう

戻りにぁ 酒買いましょう 百に米ぁ 一石 十文に酒ぁ 十ししゃげ
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上記の歌は「からすあっぱ」という"わらべ唄"となる。伊丹政太郎「遠野のわらべ唄」の中で、「からすあっぱ」は子守唄であるが、遠野のわらべ唄の中で"最も大切な唄"のひとつであると紹介されている。「からすあっぱ」とは、カラスの母親の意味であるが、ここでは熊野権現の使役カラスを意味しているのだと。ある程度の解説が「遠野のわらべ唄」には書かれているが、不明な点もいくつかある。その不明な点は取り敢えず省いて、全体を簡単に説明しよう。

どうやら二部構成になっている歌の様で、初めは熊野のカラスが酒を造る為の麹を買いに行き、つくつん太郎が生れて鎌倉へ行くまで。後半は、鎌倉での悪いネズミの話になっている。酒は霊力を持つ飲み物と理解されており、その酒を造る為の麹を四升買ったのだが、この四升は師匠にかけられているらしく、その師匠の上臈が子供を産んだ話となっている。師匠はどうも山伏系らしく、上臈は女中ではなく、ここでは妾という意味だろうか?もしくは白拍子か。

この「遠野のわらべ唄」では、仏を平清盛だとしている。遠野の昔(鎌倉時代以前)、多くの熊野修験の者が来て、遠野の民に、いろいろな事を教えたという。確かに遠野においても薬草などの山野草の知識や、民間療法は山伏が伝えたと聞く。その熊野修験の大元である熊野三山に対して多くの寄進をしたのが平清盛である事から仏の様な人、それが仏として、遠野のわらべ唄に歌われた様だ。平清盛は、奥州藤原氏とも血筋が繋がる様で、信仰も近似している。相対する源頼朝は、戦神でもある八幡大菩薩を信仰し、平家と共に平和を願う奥州藤原氏をも撃ち滅ぼそうとする悪者という認識があったのだと思われる。その源頼朝が後半"鎌倉のねんずみ"という形で登場している。

鎌倉のねんずみは あんまり悪いねんずみで

後半部の導入が、源頼朝の悪口から始まる。仏は平清盛を言うのだが、油は平家の勢力を表すのだと。木曽義仲や源義経に平家を攻めさせ、勝つ見込みが立ったところで攻め入った狡いやり方をしたのが源頼朝であったと伝わっていたようだ。また今まで奥州藤原氏の統治下でゆったり暮していたのだが、源頼朝の命を受けた阿曽沼氏が遠野を支配してから、厳しい年貢の取り立てに遠野の民は苦しんだという。これらの事から、源頼朝は悪い奴だと認識された。しかしおおっぴらに、それを言う訳に行かない。それをわらべ歌に託して伝えたのが、この「からすあっぱ」というわらべ歌であったようだ。
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ところで疑問なのは"つくつん太郎"とは、どういう存在なのか?「神の前で孕んで 仏の前で坊産すた」という神童らしい。例えば体の小さな者を「ちんちくりん」と評すのだが、遠野では訛る為に「つんつくりん」と言う。「つくつん太郎」を逆にすれば「つんつく」となり、訳すれば「ちいさな童」という意味になろうか?

「童謡(どうよう)」は、子供向けの歌を指すのだが、別に「童謡(わざうた)」とも読む。ところが童謡(わざうた)とは古代において、誰が作るともなく世間に流行った歌であり、民衆の間に広がる作者不明の流行歌という定義がなされている。ある意味、わらべ唄と同義でもある。平安時代中期に成立した「聖徳太子伝暦」という書に、歌の上手な八島という者がある晩突然訪問した人物と歌を競い合うのだが、その歌声が常にあらず、とても人の声には聴こえなかったという。歌合戦の後、その人物の後を追いかけて行くと、空が開ける頃には住吉の海に入って行ったそうな。それを聞いた聖徳太子は「それは、螢惑星でしょう。」と言った。聖徳太子曰く、その螢惑星とは火星の事で、色は赤く、南の空を司る星であると。この螢惑星は地上に降りて来て人の姿に変り、童子たちの間に入って一緒に遊び、好んで歌を作って未来の出来事を予言する様な歌を歌うと云われると答えた。また鎌倉時代末期に成立した「聖徳太子伝記」にも、似た様な事が記されており、微妙に違うのは、螢惑星を「人の世に戦乱や飢えや不作などの災難が起こる時、螢惑星が童子の姿に変身して地上に現れ、人々の間に交じって未来の吉凶についての歌を作り、広く人々に知らせる。」と説明している。最後に聖徳太子は、こう述べている「天に口無し、人の囀を以て事とす。」つまりこれは、流言などの噂話やわらべ歌が、天の意志であるという意味になる。天の意志は民の中に生きていると言って良いのかとも思う。恐らくだが、平清盛が開発したとされる禿という制度もまた、この聖徳太子の言葉を含んで制定されたものでせはなかったか?

置き換えれば支配者の耳を避けて拡がった「からすあっぱ」という遠野のわらべ歌こそ、民の意志であり、天の意志であったという事になるか。遠野の民を支配した阿曽沼氏も、秀吉の小田原征伐の後に没落し、代わりに南部氏が統治した。しかし振り返れば、遠野の民が一番幸せであったのは、阿曽沼氏以前であったのだろうか?それでは現代は、どうであろうか?

一月の満月(雪女の襲来)

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小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶ
とも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。

里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になるこ
とあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のこ
となり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。

「遠野物語103」に記されているように、一月の満月の日は雪女が出ると伝わっている。その日が昨日の1月12日であった。今年の遠野は暖冬で、サラッと降った雪もすぐに融けたので、10日まで遠野の街には雪が殆ど無い状況だった。それが一転して11日から、昨日の12日にかけて寒気団が押し寄せ、一気に遠野全体が雪景色となってしまった。雪女は、冷気を伴うというが、まさしく今回の寒気団は雪女の襲来であったかのよう。
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兎亀(とき)のかけっこ

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足の速いウサギと、足の遅いカメが競走をし、最終的にはカメが勝利する「ウサギとカメ(兎と亀)」の物語がある。

ウィキペディアによれば「イソップ寓話やラ・フォンテーヌが書いた寓話詩にも所収されている。 同じ素材の話がジョーエル・チャンドラー・ハリスの「リーマスじいやの話」にもあるが、内容は大きく異なる。日本には西欧との貿易が盛んになった室町時代後期以降に流入したとみられ、イソップ寓話を翻訳した伊曽保物語などによって近世以降に知られ始めた。一般に知られるようになったのは、明治になって教科書に採録されてからである。明治時代の初等科の国語の教科書には「油断大敵」というタイトルで掲載されていた。」

とにかく「油断大敵」という寓話で有名となった「ウサギとカメ」だが、俊足の象徴としてのウサギと、鈍足としての象徴のカメに、誰も違和感を抱いていなかった。しかし、俊足はオオカミでもシカでも良かったのではなかろうか。「ウサギとカメ」はイソップ寓話にも載っているものの、その話の原型がどこまで遡れるかわからないのではなかろうか。

実は「ウサギとカメ」の組み合わせで、気になるものがある。それは、亀占だ。亀占の歴史は紀元前の最古の王朝と云われる殷代後期が際立った時代だと云われる。その殷代では、亀占によって天道を占っていたというが、その時代の概念に「月に莵在り、日に亀在り」と信じられていた。毎日昇っては沈む月と太陽は、時間の運行に関与していた。その月と太陽を間接的に表現した生物が、兎であり、亀であった。それ故に、時間を示す「"時(とき)"」とは、「兎亀(とき)」から始まった言葉でもある。

そこでもう一度イソップ寓話の「ウサギとカメ」を思い起こして見る。ウサギとカメの到達点は同じなのだが、辿り着くまでの速度が違う。しかし、太陽は安定した速度と形で進むのだが、月は不安定な形に変化して、一旦消えてしまう(新月)存在でもある。その月の不安定さは、まさしく寓話のウサギの行動にも重なる。また時計の長針は、短針よりも見た目が派手に速く動いている様だが、到達する時間は同じとなる。つまり長針はウサギと同じ様に、いくら速く動いても、短針でありカメに勝てない存在でもある。この月日の兎亀の関係と、時計の長針と短針の関係が、何故か寓話「ウサギとカメ」に重ねてしまうのは、自分だけだろうか?

北(あべ)

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遠野の北に聳える早池峯山の上空には、北極星と北斗七星が輝く事からなのか、北辰であり妙見信仰とも結び付く山である。その早池峯山にはいくつかの安倍氏の伝承が伝わっているのも、安倍氏が早池峰信仰をしていたからに他ならない。そしてその安倍氏の出自が、未だにわかっていないのが現状だ。

安倍氏は蝦夷の豪族である事から、もしかしてアイヌの血を引いているのではないかとされたが、平泉金色堂に祀られていた安倍氏を祖とする奥州藤原氏のミイラのDNAを解析したところ、アイヌ系のDNAは無かったようである。また神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として長髄彦がいるが、その兄弟である安日彦(あびひこ)が安倍氏の祖ではないかとも云われる。安倍は「アビ」であり、火を意味するという。それが確かなら、安倍は火を意識して作られた氏名という事になる。

ところで気になるのは、早池峯がかなり北を意識された山であるという事。ただ、早池峯の古くは東峯という山名だったという説は、以前に自分が否定した。東とは太陽の昇る意を含むもので、現実的にそれが適用になるには岩手県の内陸部である花巻地域から盛岡地域にかけて望む早池峯に限っての事である為、それは恐らく南部氏の意向を汲みとった山名であったと思われる。水沢の正法寺の裏山を早池峯と称して、毎年正月に参拝するのは、北に鎮座する本来の早池峯山の遥拝所であった為だ。また、大迫の早池峯神社の向きが、遠野の早池峯神社に建てられたのも、遠野側の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を遥拝する為だった。南部氏が力を示す以前に建てられた大迫の早池峯神社が北を意識していながら"東峯"という山名であったとされるのは、東という漢字の用法からやはりおかしいのである。
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日蓮宗総本山久遠寺の山号は、身延山(みのぶさん)である。その身延山の山号は、妙見にちなんでいるという。その身延(みのぶ)とは「みのべ」の転訛であり、本来「みなのあへ」からきているとされる。「みなのあへ」の「み」は「三」であり、「な」は「四」であると。四三の星(しそうのほし)と呼ばれる星があるが、これは古くから伝わる北斗七星の古語になる。三と四の組み合わせで浮かぶのは、北斗七星。身延山が妙見を意識してのものならば、それはすんなり受け入れられる。そして「みなのあへ」の「あへ」とは、「北」そのものを云う言葉であった。「あへ」は濁点が付いて「あべ」にも転訛する。つまり「あべ」という言葉そのものが古来、北を意味していたという事になる。「あべ」が「北」を意味する言葉であるなら、"安倍貞任"が"魁偉"という北斗七星を意味する名称で呼ばれた事も、すんなり受け入れられるのだ。そして北に鎮座する早池峯山に、やはり北そのものを意味する安倍氏の伝承が存在するのも当然の事であった。

馬に関する早池峯七不思議

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早池峯七不思議の中に「龍ヶ馬場の駒の声」「安倍貞任の軍勢の音」というものがある。安倍貞任の軍勢の音は、騎馬の音であるようだ。どちらも馬に関するものだが、現実には有り得ないもの。では何故、早池峯に馬に関係する話があるのか。

「遠野物語」に馬の登場する話は少なくないが、怪異譚となると「オシラサマ」の話か、もしくは「遠野物語拾遺264」になるのではなかろうか。「オシラサマ」は有名過ぎて、今更紹介する話でもないかもしれない。「遠野物語拾遺264」は、出棺時の話になる。
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出棺の時に厩で馬が嘶くと、それに押し続いて家人が死ぬといわれ、この実例もすくなくない。必ず厩の木戸口を堅く締め、馬には風呂敷を頭から冠ぶせておくようにするのだが、それでも嘶くことがあって、そうするとやはりその家で人が死ぬ。また葬送の途中に路傍の家で馬が嘶くような場合もある。やはり同じ結果になる。こういう際の異様な馬の嘶きを聞くと、死人の匂いが馬にも通うものであるかとさえ思わせられるという。

                     「遠野物語拾遺264」
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柳田國男「山島民譚集」によれば、葦毛は最も霊異なるものなると同時に、又最も厄災に罹り易いと述べており、その葦毛馬には、神も妖怪も乗るとされる。これには昼と夜との関係が深いようだ。人間の活動する昼は、太陽光の下であるが、神や妖怪の活動する夜は、月光の下となる為、馬は太陽光と月光の影響によって特性が変わる様である。夜の闇であり月光は、冥界であり黄泉国との繋がりが深いと信じられている。テオドール・シュトルム「白馬の騎士」に出現する月光を浴びて疾走する白馬の騎士は、水害を象徴するかのような存在だった。また、コシュタ・バワーという首無し馬の引く馬車に乗るデュラハンは、死を予言する存在。馬というものは人間が制御する乗り物でもあるが、その馬は夜になると、逆に人間を意図的に誘導する存在に変化する伝承が多い。「遠野物語拾遺264」においても、馬に風呂敷を被せるのは、死へ導く馬の鳴声を阻止する為。つまり馬は、黄泉国にも近い事が「遠野物語拾遺264」によっても証明される。
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古代には、方位が逆転して示される方位観があったそうだ。それ故に、北辰を"馬脛"とも呼んだ時代があったという。"馬の足"という夜道に出現する妖怪がいる。福岡県の那珂川沿いには、遅くまで遊んでいる子供に対し「馬の足の化物が来るぞ!」と言ったらしい。昼間は大人しい馬も、夜になると恐怖の存在に移り変わったようだ。先に紹介したテオドール・シュトルム「白馬の騎士」の物語では無いが、夜の馬を怖がるのは単に怪奇譚というだけでは無い。水辺に馬の怪奇譚があるのは、水害との関連があるようだ。「白馬の騎士」は津波との関係があったが、福岡県の那珂川でも川の氾濫と馬の関係が結び付いての怪奇譚であったよう。それは九州では、夏の大風は南方、方角でいえば午から襲来すると伝えられている。自然災害が、方位と結び付いて考えられた怪奇譚なのだろう。世界的にも「闇夜に聞こえる馬蹄は、洪水の前兆である。」とされている事から、北に聳える早池峯は、方角として子となるが、方位逆転の時代もあった事から午にもなる。更に白髭の洪水伝説が伝わるのも、早池峯に祀られる神が龍神であり水神の為であろう。早池峯神社の大祭では、神を乗せた神輿は真っ先に、早池峯神社境内にある駒形社へと行くのは、早池峯大神を乗せる為でもある。神というものは、自然災害を引き起こす存在でもある。それを乗せるのが馬でもある事から、早池峯に伝わる七不思議での馬の話は、水害に関係するものではなかろうか。つまり「龍ヶ馬場での駒の声」や「安倍貞任の騎馬軍勢の音」がもしも聞こえた時は、水害が起きるのだと伝える為の七不思議ではなかっただろうか。
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