
遠野の卯子酉神社へ行くと、沢山の恋の願いが成就されたいと、赤い布切れに結ばれ、それを待っているかのよう。平安時代は俗に王朝時代とも呼ばれ、沢山の恋の歌が詠まれていた。有名な、小野小町の歌がある。
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる
衣を返して着るとは、非日常にする事だと思う。つまり夢の中の恋くらいは、非日常として楽しもうという意味だろうか。これは夢を夢として楽しもうとする小野小町の気持ちを感じるが、この頃にはまだ夢と現実の境がまだわからない時代でもあった。例えば「蜻蛉日記」での道綱母の歌がある。
言絶ゆる現やなにぞなかなかに夢は通ひ路ありといふものを
これは、夢は夢と意識しつつも、夢では互いに意思の疎通がありながら、現実は言葉も交わせていない不条理を嘆いている。この歌には、どこか夢が現実に成りえるのではという期待を感じる。しかし、先の小野小町は、こういう歌も詠んでいる。
かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ
これは夜に女から出向くのははしたないが、夢であるから誰も咎めないだろうという意の歌。つまり、夢は夢と割り切っての大胆さを詠っている。こうして見ると、小野小町は夢と現実を使い分けて楽しんでいるかのよう。
初夢の歴史は鎌倉時代からだと云うが、良い夢を見る、見たいという意識は平安時代からのものであったろう。現代でも「一富士二鷹三茄子」が良き夢と伝わっているが、本来は自分が望む夢こそが、良き夢であると思う。その中には当然、恋の歌も含まれる筈。逢いたい人に、夢の中だけでも逢えれば幸せという人もいるかもしれない。そういう想いを強くする霊的な場所として、卯子酉神社があるかもしれない。夢とは、日常の印象的な事が出易いものだ。そういう意味では、卯子酉神社へ祈願しに行った人は、そういう夢を見易くなると思う。卯子酉神社に参拝する人は、殆ど女性だと云う。王朝文学での恋の夢の歌も殆ど女性であった事から、恋の夢は女性が時代を超えて引き継いでいるか。そういえば遠野三山の三女神も、寝ている間に蓮華が降りて来た娘に、早池峯山を与えるとなったのは、女神=巫女=女性が霊的なものに強く反応するからだとも思える。こうして思えば、強い霊性は女性に宿るものであるようだ。そして降りて来た蓮華を奪う事を許されるのも、早池峯の女神の様な女性である事から、正夢を見る事の出来るのは、男より女の方が有り得そうだ。そして座敷ワラシの性別が、殆ど女の子になっているのも、人に与え奪う事の出来るのが、女性という姓別である気がしてならない。男が夢を追い求め成し得る為にはもしかして、身近な女性を大切にするこそが第一歩なのかもしれない。
