
綾織村字山口の羽黒様では、今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしていたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名が矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。
「遠野物語拾遺10」
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「遠野物語拾遺10」が語る様に、今現在も、その地に大岩と松ノ木が並んでいる。岩は古来から変わらなくあるのだろうが、松ノ木は伝説の何代目かにあたる木になるのであろうか。ところで矢立杉の伝説というものが全国に点在している。矢立杉の謂れは「矢を射立てて神に奉る」という事から矢立杉と云われるようだ。つまりこれは、神木とする神事と考えて良いだろう。ただし杉以外の樹木の伝説もある事から「遠野物語拾遺10」の場合は、矢立杉が松ノ木に代わる亜流譚になるか。
ところで松ノ木は、弥生時代に輸入された樹木である。ところが岩手県、もしくは遠野地域には、弥生遺跡は殆ど無い。遠野から沿岸域にかけての遺跡は、縄文遺跡の上に平安遺跡が重なっている場合が多い。これらから、弥生時代に輸入された松ノ木は、いつの時代に東北、もしくはもっと限定的に岩手県及び遠野地域に持ち込まれたのか?と考えた場合、この「遠野物語拾遺10」が、かなり重要な意味合いを持つ伝説では無いかとも思えるのだ。歴史家は、この「遠野物語拾遺10」を、有り得ない取るに足りない伝説と考えているふしがあるが、遠野に松ノ木が持ち込まれた時代を考えた場合、やはり坂上田村麻呂以降であった可能性があるのではないか。

古い画像だが、これは六神石神社に屹立していた「神座の松」と呼ばれた、巨大な松ノ木である。名前の通り神が降り立つ意味を持つ松ノ木だ。有名な伝説に、天女の羽衣の話があるが、あの伝説でも天女は松ノ木に天の羽衣をかけたという事から、松ノ木は神の斎く樹木であると古くから伝わる。例えば遠野地域でも、歩いていると高く聳えたつ杉の木や松ノ木が密集した杜を見つけると、その下には大抵の場合、社がある。矢立杉も矢立松も、どちらも神の斎く神木であると伝わっている証拠だろう。しかし神社という社を造る文化はいつからかとなれば、やはり坂上田村麻呂以降となる。岩手県の多くの神社の建立年代が揃って大同元年もしくは大同二年になっているのは、"坂上田村麻呂の蝦夷征伐"の後に平定され天台宗が布教に訪れてからとなる。画像の六神石神社の松も恐らく、神社が建立されて植えられたものの何代目かの松になるのではなかろうか。
「遠野物語拾遺10」の話は、坂上田村麻呂が遠野に来なかったにしろ、神域の松ノ木に矢立神事をして、神に奉った事実を伝えるものと考えても良いだろう。その矢立松の隣にひびが入っている「とがり岩」と呼ばれる大岩がある。「遠野物語拾遺10」では、「石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。」とされているが、この大岩の少し下がった場所には、縄文遺跡があった。縄文人は巨石信仰をしていたと伝えられるが、まさに「とがり岩」は、その縄文人、いや蝦夷征伐される以前の遠野に住む民の信仰の証ではなかっただろうか。かたや松ノ木は輸入された樹木であり、それを好んだのは当時の朝廷以前からのものであったろう。それ故に、縄文人の聖地に屹立していた「とがり岩」の隣に松ノ木を植え、後に矢立神事を行い神木とし、元々あった「とがり岩」よりも「矢立松」の方が位が上だとし、作られたのが「遠野物語拾遺10」の伝説ではなかろうか。