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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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河童と傀儡と瀬織津比咩(其の六)

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人形が河童になった話は、「河童と傀儡と瀬織津比咩(其の一)」で簡単に書いたが、その流れを続けよう。菊池氏の流れに、橘氏を祖とする渋江氏がいる。その渋江氏は、河童を使役する水霊祭祀の家柄で、菊池郡にある多くの神社の宮司も務める家柄である。そして肥前国杵島郡橘村(現在は佐賀県)に鎮座する、潮見神社社家の一族になる。この潮見神社の笠懸(流鏑馬)に、菊池第五代城主菊池経直が参加し落馬して死亡しているが、わざわざこの潮見神社に来ている事から、菊池氏と渋江氏との関係と信仰の深さを結び付けるものだろう。

「北肥戦志」には、渋江氏の祖である橘氏に関する河童譚が、潮見神社の縁起譚として紹介されている。聖武天皇の頃、橘諸兄が政道を補佐してからの後、孫に当たる兵部大輔島田丸が朝廷に仕えた神護景雲の頃、春日社を常陸国鹿島から奈良の三笠山へ遷宮する時に、この島田丸が匠工奉行を勤めたという。その時、内匠頭の菅原氏が九十九体(百体とも)の人形を作り、匠道の秘密をもって加持祈祷したところ童と化したのだと。その童達の力を借りて、遷宮という大事業が早く成就したのだという。さてその後に、その人形を川に捨てたところ、人や馬などを害するようになり、世の禍根となったそうな。それを知った称徳天皇が、兵部島田丸に対して、化人(河童)の災禍を鎮めよとの詔を下し、島田丸が早速その趣旨を河中水辺に触れ廻った以降、災禍が無くなったと云われる。それより河童を兵主部(ひょうすべ)と名付け、橘氏の眷属となったという事である。つまり以前に紹介した人形が河童になった話で一番古いものが、潮見神社の縁起譚でもある河童譚である。
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画像は以前に紹介した、若宮神社の社殿の梁を支える河童の彫刻である。春日大社の建築に携わった河童であるが、他の河童譚でも、城の造営や館の建造などにも携わっている事から、建築と河童が結び付いている。また、加藤清正の河童成敗の話もまた、清正の土木事業に携わった河童だと云われ、利根川の土木事業にも河童が携わっている。そこでフト思うのだが、例えば河川工事や橋の建築には、人柱があったとされるのは、水神に対する贄でもあった。それとは別に、家屋の建築においても大黒柱に人形を置いたりして、家屋の守護とする民俗が多々ある。民俗的に家屋や船の神霊は女性とも云われるのは、その神霊が女神であり、その眷属によって護るという意味があるのではなかろうか。つまり、若宮神社の場合は、女神とその社を支え護る為に、眷属である河童の彫刻を彫ったものと考えれば納得する。

遠野に伝えられる話に、川から河童が這い出して来て家に上り、座敷ワラシとなると伝えられる。座敷ワラシは家の守護でもあるのだが、その前身は河童だと云われるものを考慮すれば、若宮神社の梁を支える河童の彫り物は、その民俗を具現化したものとも考えられるのだ。ここで再度問われるのは、誰が遠野に河童伝承を運んで来たかという事になる。

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