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お盆の頃に大雨が降り、そしてその後に台風に直撃された岩手県。遠野も土淵方面で、多大な被害があった。大雨によって土砂と共に草木が倒され流されたのだが、それでもしぶとく生きている草木はある。人間に踏まれても、土砂を浴びても、日照り続きでもしぶとく生きる草木を雑草ともいう。その雑草の逞しさを「草魂」として座右の銘にしたのが、元・近鉄バッファローズのエースだった鈴木啓示だった。
カメラのファインダーを通して見るマクロレンズの世界は、肉眼では見えない、感じないものを見せてくれる。あれだけの雨が降ったにも関わらず、数日雨が降らないだけで、雑草は水を欲していたのだろう。再び水を浴びた雑草は「もっと水を!もっと、潤いを!」と言っている様に思えた。久々の水を浴びて、雑草が生命力を発散させているようにカメラを通して感じたからだ。この雑草を含めて、草木全体は水によって命を握られている。
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琴畑部落が通行止めになっていると聞いて、行くのをやめていた。しかしそろそろ良いだろうと、琴畑部落と滝を見に行って見た。久々の琴畑部落の景色を見て、やはり酷かったのだと実感した。アスファルトの道路の一部は、大雨により側面から削られ、抉られ崩壊している。鉄製のガードレールはひしゃげ、折れていた。
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その崩壊した道路の下には、申し訳なさそうに勢いのない、穏やかで透明な水が流れていた。
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しかし、その対岸には、鉄製のガードレールを破壊した水の力による残存があった。
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また、ある個所では、完全に川の流れが奥へと変わり、今まで流れていた川の場所は、淀みに変っていた。人もまた、水による被害を受けながら、水無しでは生きていけない雑草の様。何度も大雨によって踏みにじられても、水の恵みに感謝しながら何世紀も生きて来たのだろう。考えて見れば、草木の様に人間もまた、身体の60%から70%が水で出来ている。体内から水が失せれば、即身仏となる。つまり、水があってこその人間であり、その水が無くなって仏になるというのは真理でもあるだろう。
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その後に、白滝へ行って見て驚いた。そこは台風が来たのかも分からない程、いつもと変わらぬ景色があった。流木があるわけでもなく、綺麗な状態を保っていた。
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滝の傍にある社も林道も浸水した様子はなく、ここだけ台風は避けて行ったかのように感じた。この社に祀られている不動明王像は、明治時代に早池峯妙泉寺が早池峯神社となるにあたって、わざわざ琴畑部落の人々が早池峯神社まで行き、譲り受けて来た像であった。つまり琴畑部落を潤す水の神聖な神坐が、この社の建つ場所であり、滝そのものである。その神は水神で、過去にも何度も祟りを人々に与えて来たのだろう。それでも人々は、神を祀り続け、現代に至っている。「遠野物語拾遺119」で神業として、神聖な場所を犯したとして人を跳ね除け、また社に祀られている不動明王像に勝手に彩色した別当は、変死してしまったのも神の祟りであったか。恐ろしい祟り神でありながら、未だに水を求めてやまない人間は、まさに雑草と同じ"草魂"を持つものであるのか。
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水の恵みは、作物の恵みを与える。さあ、収穫だ。水の流れは、喜びも悲しみも含め全てを流し去る。流れ去るものは、全て懐かしいものとなる。そうして何世紀も同じ事が繰り返されてきたのも、全て水の流れの力によるものだったか。