
金の鶏や漆万杯の話がある館跡は幾つもある。土淵の一村だけでも、字角城の角城館、下栃内の八幡沢館などいずれも松の根を掘りに行って壷を見つけたとか、放れ馬の蹄に朱漆がついて帰って来たとかいう口碑がある。また字琴畑の奥の長者屋敷には、五つ葉のウツギがあって、その木の下には宝物が埋まっていると伝えている。字山口の梵字沢館にも、宝物を匿して埋めた処があるという。堺木の乙蔵爺が死ぬ前に、おればかりその事を知っている。誰か確かな者に教えておきたいと言っていたが、誰も教わりに行かぬうちに爺は死んでしまった。
「遠野物語拾遺131」
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佐々木喜善の祖母である、佐々木ノヨは新田家から嫁いだ者だった。何故か新田家は、代々話者を出す家系であったようだ。この「遠野物語拾遺131」に登場する新田乙蔵は、その佐々木ノヨの兄であった。
明治三十年頃、乙蔵爺は堺木峠に茶屋を出し、甘酒を茶碗一杯二銭で売って生活していたという。確かに物知りで有名な爺であったそうだが、元来風呂に入らない、衣類の洗濯もしたことが無かったそうで、近付くだけで吐き気がする程の悪臭を放っていたらしい。これは「遠野物語12」と重複してしまうが、乙蔵爺が余りにも臭い為に、誰も近付かなかったのが真相の様である。ただ、物知りと"ひょうはくきり"は、紙一重の存在でもあったらしい。乙蔵爺だけではないが、地域の物知りやひょうはくきりの語る話は真実の様で嘘が多く、嘘の様でも真実に近い話もあったようで、乙蔵爺の話も、どこまで信じて良いのかわからないだろう。

画像は八幡沢館で、安倍氏と戦った源義家の陣屋があったという伝承がある。また角城館にも、安倍氏の伝承がある。この「遠野物語拾遺131」で記されている内容の殆どは、黄金に関する伝承であるが、その黄金探しは、蝦夷征伐の名目で古くから始まっている。それが本格化されたのが、蝦夷が平定された桓武天皇時代であり、その蝦夷の反目の流れが安倍氏に受け継がれている。
ところで、金の鶏の話が出ているが、遠野では黄金の牛の話は伝わるが、金の鶏の話は聞かない。ただ、平泉にある山に金鶏山というのがあり、山頂に雄雌一対の金の鶏を埋めたという伝承がある。例えば、東北で初めて経塚を行ったのは、奥州藤原氏だと云われる。その経塚が遠野にはいくつかあるが、それが奥州藤原氏の影響から来ているようである。文化の流入と共に話の流入があるとしたなら、金の鶏の伝説もまた、奥州藤原氏から流れて来たものではなかろうか。その奥州藤原氏の祖は安倍氏であるが、土淵にはその安倍氏の痕跡が多く残っている。その安倍氏から奥州藤原氏の流れの中の伝承を、乙蔵爺が知っていたと云う事では無いか。
堺木峠で茶屋を営んでいた乙蔵爺は、旅人からも多くの情報を得ていた可能性はある。琴畑の長者屋敷も、その範疇であろう。長者屋敷を延々と登れば、白望山の登り口を通過し、小槌川の減流から大槌へと抜ける。また琴畑からは別に、立ち丸峠へ抜ける峠もある事から、山の怪異と神秘の伝承を携えた人達から多くの情報を得た事だろう。代々評判の話者を排出する新田家の血に、乙蔵爺の集めた情報が重なり膨れ上がって、確かに多くの事を知っていたのだろう。しかし、その乙蔵爺から好奇心旺盛な佐々木喜善が、多くの話を継承出来なかったのはやはり、乙蔵爺の放つ悪臭が、あまりにも酷かったのだろう。