
早池峰は御影石の山なり。此山の小国に向きたる側に安倍ヶ城と云ふ岩あり。険しき崖の中程にありて、人などはとても行き得べき処に非ず。こゝには今でも安倍貞任の母住めりと言云ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆと云ふ。小国ね附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんと云ふ。
「遠野物語65」
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まず、早池峯は蛇紋岩の山で、御影石の山では無い。宮沢賢治は、早池峯の蛇紋岩に夢中になり、かなりの蛇紋岩を採集したという。
「注釈遠野物語」では、佐々木喜善は早池峯を御影石の音韻で包みたかったのかもしれないと書いているが「御影石の音韻」とは言い得て妙である。例えば「日本書紀」で伊邪那美は軻遇突智を産んだ時にホトを焼いて死んだのだが、そのホトを「御陰」と記している。「御陰」「御影」とも、女陰を意味する事から女神を意味し、早池峯に祀られる女神を彷彿させる。また「播磨風土記」での御陰大神が降り立った御陰神社には玉依姫が祀られる。これは、御陰大神という神名が、実は女神であるという意が含まれている。そういう意味を考えれば、早池峯は蛇紋岩ではなく、冒頭の「早池峰は御影石の山なり。」という言葉は、まさに早池峯とは女神が祀られている山であると暗に、そして意図的に紹介している気がするのである。

安倍ヶ城は、麓から直接登るとなると大変であろうが、早池峯に登ったのなら、後は剣ヶ峰方面を尾根伝いに歩いて行けば、いずれ到着する場所でもある。一般庶民が山に登る様になったのは明治時代に西洋のアルピニズムの文化が入り込んだ以降である。しかし、遠野にその文化の流入したのは恐らく、半世紀は過ぎていただろう。つまり「遠野物語」が書かれた時代に山に登る一般庶民、まず居なかったであろう。それが何を意味するかというと、明治時代に霊山である早池峯に登る人間は、宗教者かマタギに限定されたのだと思う。つまり殆どの人間が、早池峯から安倍ヶ城へと行く経路をよくわかっていなかったのではなかろうか。
ところで「注釈遠野物語」では「安倍ヶ城の錠の音」を雷の音であろうとしている。これは「明日は雨ならんなど云ふ」文に続くのだが、雷の音を錠の音に見立てて、天気予報代わりにしているのだろうとの判断によるものだろう。しかし、遠野は思った程に雷は少ないのが気になる。ただ早池峰連峰の岩は脆くも崩れやすい蛇紋岩である為に、岩の崩落による音が雷の音に聞こえた可能性はあるだろう。そういう意味では、麓から直接安倍ヶ城に登るのは危険な行為となろう。

安倍貞任の母が住むという安倍ヶ城とは別に、早池峯山頂から少し下ったところに、上の画像の「安倍窟」がある。戦に敗れた安倍貞任が三日間隠れ潜んだ窟だという伝説が残っている。安倍貞任に関係する岩などの伝説は多く、どうしても冒頭の「早池峰は御影石の山なり。」を意識せざる負えない。早池峯を信仰した安倍氏が、その早池峯の岩肌に守られる様な伝承が多い事から、安倍氏と早池峯の強い結び付きを感じる。蛇紋の名称より、御影の名称は神功皇后の頃まで遡る。澤之井という泉に神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」の名の起こりであるとされている。その御影の北に位置する六甲山に花崗岩が産出した事により御影石という名が付いたのだが、その御影石の算出した六甲山に祀られる神とは、早池峯の女神であった。その御影石を産出した御影町は、兵庫県武庫郡に属し、その武庫の港を武庫津といい、それは向津であり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を意味するのだと。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは早池峯の女神の異称である事から、御影石の音韻に包まれるようという意図を佐々木喜善が持っていた事は、御影と早池峯の女神と安倍貞任の結び付きを知っての事であったろうか。