
山口の大同の家のオシラサマは、元は山崎の作右衛門という人の家から、別れてこの家に来たものであるという。三人の姉妹で、一人は柏崎の長九郎、即ち前に挙げた阿部家に在るものがそれだということである。大同の家にはオクナイ様が古くからあって、毎年正月の十六日には、この二尺ばかりの大師様ともいう木像に、白粉を塗ってあげる習わしであったのが、自然に後に来られたオシラサマにも、そうする様になったといっている。
「遠野物語拾遺80」

まず白粉の話だが、上組町の太子堂の太子様の像に白粉を塗る風習は、太子様は百日咳の霊験あらたかという事から太子様の顔に粉おしろいを塗り、願をかけて白粉を剥ぎ取り、その粉を子供の喉に塗ると1週間で治ると云われた。その通り画像の太子像の顔が異様に白いのは、その風習の通り"お白い"を塗って願を掛けていた為だ。
しかし、白粉の成分は鉛白か水銀であり、この白粉を塗る事により鉛中毒・水銀中毒となる場合が多々あった。今でこそ白粉に鉛白や水銀は使われる事は無くなったが、使われていた時代背景を探れば、金属加工をしていたからこそ、白粉は手に入った。大同という家は、大同元年に関係すると云われ、土淵では草分け的な家だと伝えられる。何故に蝦夷征伐が行われたのかだが、決定的なのは聖武天皇時代に金が発見された事だろう。それまで日本には金が無く、輸入に頼っていた為に奈良の大仏の完成が遅れていた。そんな時に、蝦夷国の小田郡から、金が発見された。それから多くの金属探訪者でもあった修験が東北に派遣され、金探しが行われた。それから東北に皆無だった神社が、坂上田村麻呂の蝦夷国平定の後、多くの神社が建立された。神社とは、その金の発見・採掘の為の前線基地であったと云われる。早池峯神社の建立されたのも大同元年と伝えられる。大同という年号は蝦夷国において、金の開拓の年号でもあった。つまり大同家というのは、金属加工に関係していた家では無かろうか。
井上鋭夫「山の民・川の民」によれば、北陸においてタイシと呼ばれる者達がおり、それを別に「退士」とも称し、「戦に敗れた落人」でもあったとされる。遠野だけでは無いが、鉱山の労働者には、脛に傷を持つ者達の集まりであった。その中には隠れキリシタンもおり、また確かに"退士"でもある落人もいたようである。井上鋭夫によれば、タイシと呼ばれる者は山の民であり採掘をする者達であると。それが川の民と結び付いたのは、採掘した鉱物を川を利用して運ぶ為の結び付きであると説いている。
大同家には大師様という木像を祀っているというが、通常大師様といえば弘法大師であり、太子様となれば聖徳太子になるのだが、ここでの"たいしさま"とは恐らく、大同家に伝わる採掘・治金の金属集団を"たいしさま"という名の元に隠し祀っていたのではなかろうか。「遠野物語69」では大洞家の養母は「魔法に長じたり。」と記されているが、それは「物部」と記された墨書土器が発掘されている事から、遠野の地にも物部氏が流れ着いたのではないかと以前に書いた。物部氏とは、蘇我氏との戦いに敗れた"タイシ"であった事から、大同と名乗る家に伝わる魔法とは物部の魔法の可能性もある。つまり、タイシ信仰と魔法とは、物部氏が伝えた信仰の一つではなかろうか。その物部氏は古くから金属に深い関わりを持っていた氏族である事から、大師様とオシラサマに白粉を塗る行為は、物部氏に関係すると考えられる。

そして、オシラサマが三姉妹であり、それが三つの家に分かれて祀られているとの記述は、そのまま遠野三山に祀られる三女神に関係する話ではなかろうか。大同元年に建立された早池峯神社は、遠野で一番古い神社となる。それから六角牛神社などが続いて建立された年代が大同年代である事から、大同家がもしもオシラサマと遠野三山神話に関わるのであるならば、その信仰形態を持ち込んだのは物部氏では無いかとの想定が成される。大同年間である平安時代の遠野の中心地は、土淵から附馬牛にかけてであったという前提で考えれば、そのオシラサマでありタイシ様の信仰も、土淵から発せられたものであるだろう。