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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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蛇と百足(諏訪神社縁起の疑問)

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承久三年(1221年)阿曽沼親郷が軍務の為に信濃国に出陣した時、諏訪湖の畔に宿をとった夜に、諏訪大社の神の夢告により蛇の妖怪を退治して神剣を賜った。帰国後、横田城の南に御堂を建立して諏訪大社の神を祀ったのが始まりと伝えられている。

上記は、諏訪神社の案内板に書かれている内容を抜粋したもの。蛇の妖怪を退治した後に諏訪大社の神を祀ったといい、現在の祭神は建御名方神となっている。建御名方神は国譲りの神話において、建御雷に両腕をもぎ取られる。定説では、腕の無いその姿が蛇であろうとされ、建御名方神=蛇神という事になっている。事実、諏訪大社の歴史を踏まえてもミシャグチ神など蛇神を祀る諏訪大社である。

この遠野の諏訪神社の案内板に書かれているのとは別に、阿曽沼親郷が諏訪の神に頼まれムカデ退治をした伝承もまた伝わっている。恐らくこの諏訪神社の由緒は後付であろうが、蛇を退治したと百足を退治したとでは、全く意味が違ってくる。

蛇と百足といえば有名な伝説がある。大百足に変身した赤城山の神と、蛇になった二荒山の神が戦う話だ。劣勢の二荒山の蛇神は奥州の熱借山の猿麻呂に加勢を頼み、見事大百足の右目を射抜いて撃退した話がある。そして、これとは別に近江国で俵藤太(藤原秀郷)がやはり蛇神に頼まれて大百足を退治する話が伝わっている。恐らくこの諏訪神社の由緒は、これら伝説を元に作られたものであろう。ただ何故、蛇を退治した事が、諏訪神社の由緒に採用されているのか?ここで一人の人物が浮かび上がってくる。それは、蒲生飛騨守氏郷の養妹で、名を於武の方といい、俗に「ムカデ姫」と呼ばれた南部利直の正室である。

盛岡市に、そのムカデ姫の墓があるというが、それには伝説が付随している。於武の方の祖先は近江国で百足退治をしたという俵藤太(藤原秀郷)である。

南部利直の正室である於武の方は、俵藤太が百足退治した時に使用した矢の根を持参してきたという。そして、その於武の方が91歳で亡くなり遺体を納棺する時、遺体の下に変色している部分が百足の這い回る姿に似ていて人々を驚かせたという。百足の祟りを恐れた利直は、百足除けの堀を巡らせた墓を作るように命じた。だが、その墓へ行く為の堀に橋を架けたのだが、一夜にして破壊されたという。何度も架け替えようとしたのだが、その都度に百足が現れてそれを破壊した。また於武の方の墓から大小のむかでが這い出し、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたと云われる。それから於武の方をムカデ姫と呼び、その墓をムカデ姫の墓と名付けたのたと。

まずここで理解できるのは、ムカデ退治(もしくは蛇退治)の正しい由緒を持つ人物とは、南部利直の正室であった事。この諏訪神社の伝説は、広く全戸に流布しているものであり、誰もが二荒山、もしくは俵藤太の伝説をイメージするものである事。

もしも阿曽沼がこの由緒を正式に採用した場合、南部側はどう思ったであろうか?南部利直にとっては俵藤太の血脈を持つ者と婚姻し、その子孫を育んだとすれば、看過できない由緒となる。しかし阿曽沼は没落し、その後に南部が統治しても、この由緒は変わる事が無かった。ならば、答えは一つ。この由緒を諏訪神社のものにしたのは南部氏であろう。

言い伝えによれば、この神剣を紛失したり、猿ヶ石川の水が赤変すると阿曽沼家に不吉な事がある前兆とされ、横田城を今の鍋倉城に移す時も猿ヶ石川の水が赤く濁り、神剣も紛失したというので重臣達がことごとく反対したが、移城を強行し、間もなく阿曽沼家は滅亡したと伝えられている。天正年間(1573~1592)の事である。

諏訪神社の案内板には、上記の付随の伝承も書き記されている。これらを読めば、阿曽沼の滅亡は、神剣を紛失した不祥事も重なる天意であったという内容となる。迷信が信じられている時代には、事件の正当性を強調させる為に、こういう迷信を流布させるものである。

この伝承を読んで、一番喜ぶのは南部氏であった筈。例えば遠野の汀家に伝わる伝承に「開けぬ箱」があるが、その箱の中には、阿曽沼家の家紋を纏う者が、南部家の家紋を斬るという絵柄が入った紙が一枚入っていただけであったという。当然それが南部時代に開けられ広まれば、御家取り潰しとなったのだろうとされている。つまり、阿曽沼氏は、南部氏に裏切られたという怨みが深く募っていた。その阿曽沼の怨みをかわす為に、阿曽沼氏建立の諏訪神社の縁起を改竄もしくは捏造した可能性は極めて強いものであろう。恐らく、諏訪神社の正式な由緒は、南部氏によって破棄されたものと考える。

ただ何故に百足退治が蛇退治に変わったかというと、正室の於武の方がムカデ姫と呼ばれ、そのムカデを退治する由緒をそのまま採用する事が出来なかったのは、南部家の一つの良心であったのかもしれない。

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