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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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遠野不思議 第七百五十三話金毘羅神社」

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現在、早瀬町に祀られているが、以前は大工町であったようだ。「遠野町古蹟残映」によれば「遠野町第13地割1番大工丁の北にあり。金刀比羅大権現を祀る。御神体は高さ一尺位の木造の小堂にて、もと下の屋敷なる山奈某の内神なりしを、山奈家絶えたる後その遠縁の者これを祀ると伝ふるのみ。其他不明なり。」とある。別当に聞くところによると、明治時代にこの早瀬の地に移転したようだ。その当時の方針によるものか、信仰によるものなのか北向きに社殿が建てられている。北向きの社殿といえば有名なのが胡四王神社だ。ただこれは山奈氏の氏神であり、その山奈家が絶えた為に、その詳細は明らかではない。しかし遠縁の者が、その意思を引き継いで、この金毘羅神社移転し祀った事から、現在の金毘羅神社の祭祀は、山奈氏の信仰の在り方が今でも残っていると考えて良いだろう。

祭壇には、金毘羅大神を取巻き、いろいろな神や仏像が祀られている。

中央に祀られる像は、恐らく金毘羅権現となるのだろう。修験道が盛んになると共に、金毘羅権現の眷属は天狗とされた。画像を見ると、脇侍に羽が生えているのが見えるので、烏天狗であろう。

一番下に置かれている像がわからなかった。別当に聞いても、よくわからないようで、見ると着衣の感じから如来系では無く菩薩系であるのだろうが、手にしている杖のような剣のようなものが理解できなかった。ただ遠野市立博物館「遠野市の仏像」を見ると、神像と紹介されている。ただ姿形が神像よりも観音菩薩系に近いと思うのだが…。

そして、この金毘羅神社に合祀されているのが、横田村にあった熊野神社と大瀧神社のようだが、これは光興寺に阿曽沼が横田城を築いて横田村となった時に祀られていた神社であるようだ。それが金毘羅神社が移転した時に合祀されたようだが、横田城の移転は17世紀の事だから、その時に社を無くしたとしたら、誰かが個人で祀り守ってきたのだろう。ただ熊野神社は全国でも三番目に多い神社であり、遠野でも多くの熊野神社が祀られている。

ただ大瀧神社という名称は、六角牛山の不動の滝の傍に祀られていたのが大瀧神社という名称の神社であるが、今では移転し六神石神社に合祀されている。もしかしてその大瀧神社かと別当に聞くと違うと言う。あくまで横田村で祀られていた神社であるそうだ。しかし大瀧と付けば、大抵は瀧傍に鎮座する神社であるのが一般的だが、現在の光興寺近辺に滝は無い。ただ似た様な形式で、東和町の大瀧神社は社殿の傍には滝が無い。しかし渓流が流れている為、その渓流を滝に見立てて大瀧神社として祀ったようだ。また、猿ヶ石川の田瀬湖手前の川の流れを「砥森滝」と呼ぶのは、川の激流が滝を彷彿させるものから「砥森滝」と呼んでいる。そういう意味から横田村で祀られていた大瀧神社とは、もしかして横田村を流れている猿ヶ石川の激流を滝と見立てて祀ったものだろうか?

これもまた、金毘羅神像となる。金毘羅はクンピーラで本来は、ワニであったが、修験と結び付いた為に天狗と融合し、こういう姿になってしまった。

「路傍の石碑の多き事諸国類稀を知らず。」という柳田國男の言葉だが、その路傍の石碑の中で特に目につくのは「山神」と「金毘羅」ではなかろうか?忍峠の入り口に沢山の金毘羅の石碑が建っているのは、樹木を伐採して川の流れを理由して運ぶ木流しという仕事から水難事故を防ぐ意味合いから建てられたと聞いた。しかしだ、遠野の石碑を見て歩くと、必ずしも金毘羅の石碑は川傍にある訳では無い。これは伊予の国との関係もあるようなので、いずれ遠野の金毘羅信仰を書き綴ろうと思う。

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