
青笹村中館の道の傍らに一つの丸石がある。腰掛けたくなるような石なので、
村人が腰掛けたりすると、たちまち気分が悪くなり、傷寒のような容体にな
る。巫女に聞くと、その石は千曳石と云って、人の生き血を石に塗ったもの
であると。
「岩手民話伝説辞典」

とにかく中館跡へと行って見た。館跡には塚に墓石が建てられいるものが、いくつもあった。

その殆どは墓石の様であった。取り敢えず伝説によれば、この中館周辺の道の傍らとあるので、周辺360度を探索してみた。

ところが目に付くのは、墓地ばかりであった。

この中館周辺を探索してみると、車が通れる道以外に、獣道のように狭いものや、もう既に道としての機能を果たしていないように道もかなり張り巡らされていた。ところが不思議な事に、この中館周辺には石という石が全く無い。例えば畑を開墾する場合、出て来た石を端へと重ねて置く場合もあるのだろうが、そういう石さえも殆ど見る事が無かった。こうなれば"千曳石"とは、殆ど幻の石である。

道の様な草むらの様なところを歩いていると、石らしきに躓いた。見ると石ではなく、墓石であった。草むらに覆われていたので気付かなかったが、いくつか倒れている無縁仏だろうか、そういうものがこの中館周辺には散らばっている。とにかく石は無いが、墓石が転がっているのが中館周辺だった。

ここでの伝承は「千曳石」と云われるが「千曳岩」となれば「古事記」で有名な伊弉諾が黄泉の国の伊邪那美から逃げて、現世と黄泉の国を分け隔てた岩となる。そしてその際に伊邪那美は「愛しきあがなせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」この言葉は、伊弉諾と伊邪那美として国生みをしてきたものを千曳岩によって分け隔てるのは離縁と同じ。ならば、伊弉諾の国の人どもを一日千人殺してやろうという呪いの言葉だ。それ故か、千曳は"血引き"とも云われ、その現世と黄泉の国とを分け隔てた千曳岩を血に染める意思が伊邪那美によって訴えられた。
この青笹の千曳石の伝説では、人の生き血を塗ったものとされているが、恐らく歴史的な動乱で、人の命の際に浴びた血の事を云っているのではなかろうか?ただ、この中館を治めた領主は、中舘勘兵衛と云われるが遠野に入部したのは1627年と云われ、ある程度の動乱は過ぎ去った後だった。更に、この中館氏による中館の当時は、然程長い期間では無かったようで「遠野市史」の年表を見ても、多くの人が死んだという事件は無かったようだ。

ただし中館氏が中館を築く以前に、隣接する八坂神社は鎮座していたようだ。八坂神社は今から約600年前に京都から勧請され、南部藩の代の慶長年間(1596~1615)に家臣佐々木三郎義重の祈願社として修造に努めたとある。
この頃から中館が築かれた間に、この青笹近辺で人が多く死んだという事件は、1601年に諸民あげて城代政治を憎み一揆を起すが城代圧するに及ばず、殺人・盗犯・放火など続出し、遠野の恐怖時代となったという。そして神社仏閣が荒廃するとある為、先の佐々木三郎義重が八坂神社の修造に努めたのだろう。その恐怖時代がどういったものか詳細はわからぬが、イメージとしては応仁の乱の後の京の都の様であったろうか?人の心は荒み、信仰する筈の神仏も荒廃した遠野の恐怖時代に、どれだけの人が死んだのであろうか。1624年に飢饉があったようだが、飢饉による人の死は餓死が殆どの為、血が纏わりつかない。恐らく、人が人の手によって流された血の時代が、この伝説の千曳石では無かっただろうか。