
これも、前回の「呪い屋敷と発見された観音像」と舞台は同じ、能舟木である。
能舟木に、ある法印が住んでいた。法印とは、僧位の一つであり法印大和尚位の略となる。元は仏教における真理の印を意味し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印とする事からきている。僧位としては貞観六年(864年)に設けられた僧正に与えられる階位であった。その法印が、諸国の霊山を巡礼している際、秋田県の仙北でたまたま博打をしてしまったという。ところが勝ちに勝ったりで、その座で独り勝ちしたらしい。そのままでは危ないと思ったのか、用を足しに行くとして、そのまま逃げてしまったのだと。その場を取り仕切っていた者は怒り、その仲間の二人が法印の後を追った。
法印は、どうにか能舟木まで逃げ延びて来たという。とにかく喉の渇いた法印は、持っていた杖代わりに使っていた桜の木の枝を小川のほとりに差して、その小川の水を飲んだという。しかし追っ手は、その能舟木まで来ていた。

追いつかれた法印は、桜の枝をそのままにして逃げたが、ついに能舟木の塚で追いつかれ、追っ手の者はそのまま法印を惨殺し、金を奪い取った。その時、新城館の見張りが法印の叫び声を聞いて駆け寄ってくると、その法印の殺された姿を見つけたという。犯人はまだ遠くには行って無いとして、追いかけると、殺された法印が水を飲んだ小川で、その法印を斬った刀に付いた血を洗っていたという。館の見張りの者は、その二人の者達を取り押さえ首をはねたという。その時「仙北恋し。」という言葉を、息絶える寸前に吐いたのだと。
その追っ手の亡骸を小川のほとりに葬り。一基の石を墓石として立てたという。ところがその石が、いつも決まって仙北の方向に倒れるのは、二人の霊がこの石に籠ったのであろうとし、その石を地蔵石、叉は仙北石と名付けた。また別に、法印の差した桜の枝には根がついて、小川のほとりにある桜がそれであると伝えられる。その小川の水は、血を洗ったと云って、飲まないものだと伝えられる。

この能舟木の小川とは「遠野物語拾遺32」で紹介される、坂上田村麻呂の大蛇退治の話に登場する川であり、坂上田村麻呂はその大蛇を斬った太刀を川で洗った事から太刀洗川と称されたとするが、異伝もあったのだ。太刀洗川とはあくまでも伝説の様で、その川の正式名称は能舟木川である。ただ画像の様に、今でも川に供物を捧げる風習がある事から、あるモノの死を供養しているのは確かのようだ。ただ解せないのが法印と云う高い身分の僧が、何故に博打に手を出したのか?そういう面では、創作も入っているかとも思える。それか、元来の生臭坊主であったかのどちらかだろう。名僧や高僧の手にしていた杖を地面に差したら、根がついて大木になっという話は、遠野界隈だけでは無く、全国に多く見受けられる伝説だ。その多くの主役は、弘法大使となっている場合が多い。
それよりも気になるのは、前回の六部殺しの話でもそうだが、余所者に対する警戒心である。よく余所者とは「幸福をもたらす場合もままあるが、大抵の場合不幸を持ち込む者である。」という認識が小さな集落では意識されていた。それが生き残る術でもあり、飢饉などで悲惨な時代を過ごした集落などでは、すこぶる強かった。方言などは、余所者を見分ける為に出来た言葉であるとも云われる。実際に薩摩藩は、余所者を見分ける為に言葉を作ったという。それは身形が同じでも、言葉が違えば余所者である事がハッキリ認識できる為であった。
女六部が殺されたのも、小さな集落に用事があるとすれば大抵の場合、盗みを働く為だろうという決めつけがあった為からの疑念からであったのだろう。または、六部などを殺して金品を巻き上げたのもまた、その悲惨な時代を生き残る術でもあった。ただ今回の仙北からの追っ手二人も殺した後に、懇ろに供養しているのは、日本に浸透する祟りと云う文化の一環であたのだろう。殺せば祟られる。なので神として祀るか、懇ろに供養する。神仏に対する恐れは、神罰仏罰となって返ってくる恐れである。これはつまり、どんな人間でも神であり仏になれるのだと信じていたからでもあるだろう。