
建築メーカーである積水ハウスがトンデモ事件を引き起こしていた。「積水ハウスが従業員の名前を読み間違っただけで、会社挙げてその客を提訴」名前を読み間違っただけで精神的苦痛を受けたとし、その従業員を会社挙げて支援し、家の建築を頼んだ客を提訴なんて、今世紀稀に見るトンデモ事件じゃないだろうか?
ところで家は縄文時代では竪穴住居式が一般的であったが、時代と共にその建築様式が変化してきた。画像の、遠野を代表する曲家は、八代将軍徳川吉宗が幕府の財政難から主導した改革で、それにより経済の活性化を促そうと、輸入品も緩和させた為に、長崎からとんでもないものが日本に侵入した、狂犬病である。それまで狼は、山に潜み、農作物へ被害をもたらす鹿などを獲物とし主に集団で狩っていた。その為、狼は益獣とし、また山の神の使いとして崇敬されていたのだが、狂犬病によって狂ってしまい、人や家畜である馬をも襲うようになった。その為に、馬を外に放置できないからと、人間と同じ屋根の下で保護しながら生活するように考案されたのが曲家でもあった。

屋根はまだ茅葺屋根が主流で、その茅葺屋根は燃えやすいという事から、画像の様に「水」という文字を入れる事により、火除けという呪術を施している。これは呪術でもあるが、当時の技術でもあった。呪い(マジナイ)というものは、今でこそ胡散臭くも感じるのだが、現代ほど科学の発達していない時代では、先端を行く科学でもあったのだ。
映画「刑事ジョン・ブック~目撃者~」では、アメリカ大陸に住むドイツ系移民のアーミッシュの文化を映画の中でも紹介していた。村という単位は運命共同体でもあり、村人総出で、家を建てるのもまた仕事になっていた。これは昔の遠野でも、小さな集落でも行われていたようである。若い者が主体で、農作業や家の建築をし、動ける老人は、病気や怪我による動けなくなった老人の世話を村単位で行っていたようである。その為に村の絆は深くなるのだが、ひとたびはぐれ者と認定されれば村八分とされ「八つ墓村」のような悲惨な事件さえ起こり得る事もあったのだろう。「遠野物語拾遺71」の三峰様の信仰も、村単位で導入した取り決めであったのだろう。そうして、その悪事を罰する事も村の中で粛々と執り行われたようだ。実際、南部藩時代の処刑場は宮の目が主体であったが、この広い遠野郷であるから、全ての罪人を宮の目で処刑したわけでは無く、ある程度の処罰は各地域に任せた為か、遠野の各地域には独立した処刑場があった。
村単位で固まる背景にあったものは、飢饉などによる貧しさであったよう。夕暮れ時、人の顔もよく見えなくなった時間帯に「もしもし」や「おばんでがんす」などと相手に対して声をかけるのは、その人間が果たして同じ村人なのか?それとも、余所者か?もしかして妖怪?などという事を確認する為の行為であった。小松和彦「異人論」を読むと「余所者とは幸福を運ぶ場合もあるが、大抵は災いを運ぶ者である。」という認識が、小さな村単位で定着していたのだろう。何故なら、世の中が貧しく荒んでいれば、我が身可愛さに、人のモノを平気で奪う者が現れるからだ。その為に、村単位で固まる意識が生れたのだろう。これは、アフリカなどでライオンを追い払う為に、鹿が頭を中心に円陣を組み後ろ足で蹴り上げる戦術と同じようなものであろう。

家を建てるのも、簡単なものであるなら村の中だけでどうにかなったが、その建築技術の向上により、良い家を建てるとなれば、そういう技術を身に付けた者でないと建てる事の出来ない時代に登場したのは大工である。一昔前の宮大工の棟梁は甲斐の国から来た者であったよう。甲斐の国といえば、南部家が甲斐国出身であめから、その流れから甲斐国からも、様々な職人が未開の地のような遠野の地まで流れてきたのだろうか。どちらにしろ、そういう新しい技術を持った職人が来ない事には、田舎の文化も発達しない者であったろう。それから、遠野の人々も甲斐国から来た大工に弟子入りし、地元の大工職人を養成していった。
ところが、その家も高価なものであるから、現代の建築メーカーは挙って安い工法を開発し、安価な家を全国に拡げているのは、全国的に所得が低くなった者が増えた影響が大きいだろう。しかし先に紹介した積水ハウスの様な酷いメーカーもあり、家の建築の際のトラブルは様々発生しているよう。そこで帰結するのが「やはり安心して頼めるのは地元の…。」という事になってしまうのだろうか。「余所者は幸福を運ぶ場合もあるが、大抵は災いを運ぶ者である。」という認識が、再び積水ハウスによって頭をもたげたのだった。