
橋野の沢檜川の川下には、五郎兵衛淵という深い淵があった。昔この淵の近くの大家の人が、馬を冷しにそこへ行って、馬ばかりおいてちょっと家に帰っているうちに、淵の河童が馬を引き込もうとして、自分の腰に手綱を結えつけて引張った。馬はびっくりしてその河童を引きずったまま、厩に入り、河童は仕方が無いので馬槽の下に隠れていた。家の人がヤダ(飼料)をやろうとして馬槽をひっくりかえすと、中に河童がいて大にあやまった。これからは決してもうこんな悪戯をせぬから許してくなさいといって詫証文を入れて淵へ還って往ったそうだ。その証文は今でもその大家の家にあるという。
「遠野物語拾遺178」

岩倉山を源流とする沢檜川は、透明度が高い綺麗な川だ。この五郎兵衛淵の上流には瀧澤神社の奥の院があり、伝説では鮫が川を遡って瀧澤神社の奥の院まで行ったという事であるが、奥の院にはどうやら水の女神が鎮座している。その女神に参詣する為、「肥前風土記」に記されている様に、いろいろな水の眷属が女神に参詣する為に遡上し、そして定着もしたのだろうか。
河童と詫証文の話は多々あるが、この詫証文という特異性は、どこかで熊野が発行する起請文を思い出す。まあ一般的な証文は、金銭の貸し借りでよく発生し、古文書などの殆どは、そういう金銭の証文だったりする。その証文に神威という権威付けしたのが熊野の起請文でもある。ただ大抵は、人間が神との契約を結ぶものが起請文であるが、この河童の詫証文の場合は、河童という妖怪が人間と結ぶ契約書でもある。柳田國男曰く「妖怪とは、神の零落したものだ。」という言葉が、ここで生きてくる。本来河童とは、神の領域に近い存在であろうが、零落した事によって人間の領域に近付き、その人間の作った契約書である詫証文を重要視せざる負えない河童は、哀れな存在と成り果てた。これは江戸時代になり、例えば神威のある恐ろしかった天狗などが、いつの間にか人間側に零落し、いつの間にか人間にも騙される存在になってしまった。闇の領域に棲んでいて人間を驚かせていた妖怪たちが、太平の世となさった江戸時代において闇の領域が薄れ、明るい太陽の元へと引き出され、人間と対等か、それ以下の存在に堕ちてしまったのは、逆にそれだけ日本人の学問が発達した為であるのかもしれない。
江戸時代に、江戸の商人が今の秋田県へと旅した時、行く先々で「オニが出るから気を付け為され。」と注意されたのだが「今のこの時代に、オニなぞ居る筈もない!」と完全否定していたのは、実は現代とそう変わらない時代であったような気がする。ちなみにオニとは、秋田弁による訛りであり、狼である「オイヌ」が転訛し「オニ」として聞こえたものだった。とにかく、妖怪としての権威は失墜し始めた時代の話であったろう。