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馬頭観音トイウモノ

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去年の4月に書いた記事「坂道の自転車事故と馬頭観音」がある。昭和59年に、遠野の水光園へ行く途中の坂道で、観光客がレンタサイクルに乗りながら転倒する事故が多発し、死亡者も出たという事故があった。地域の人達は、この事故の要因に以前、道路工事の時に邪魔だった馬頭観音の石碑を移転した事が影響しているのではないかと考え、再び同じ場所に馬頭観音の石碑を戻したところ、事故が無くなったそうである。
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上の画像は、水光園へと続く坂道の始まりにある馬頭観音の石碑であるが、地域住民は何故転倒事故が馬頭観音の石碑を移転した為だと思ったのだろうか。


馬頭観音は一般的に、道の安全を祈願したものや、馬の供養を含めてのものと思われている。ただ、大々的に馬の供養を意図した石碑は「馬魂碑」と刻まれたものであろう。遠野八幡宮には、その馬を供養を意図した馬魂碑が建てられている。


Gakken Mook「観音菩薩」から「馬頭観音」の項目を読んでみると、馬頭観音が日本に輸入されたのは八世紀のようだ。ただ民間に広まって行くのは、やはり江戸時代からのよう。馬頭観音は、馬の安全を守る神、旅の安全を守る神、濃厚全般の仏として祀られた。やはり、路傍の石仏や石碑などに多く刻まれていったのが江戸時代からであるよう。旅の安全を守るとされたのは、人を乗せて運ぶ馬という事からなのだろう。その旅の安全がいつしか道の安全を祈願して、坂道などに馬頭観音の石碑が建てられていったのだろう。ただ、坂道に建てられた馬頭観音の石碑が多いのは、古来からの風土記の影響もあるのではなかろうか。
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遠野市小友町の入り口付近に、馬頭観音の石碑が並んでいる。こうして石碑が並んでいるのは戦後の道路整備で、あちこちに建てられていた石碑がまとめられた場合が多い。ただ、この小友町に入る場合、鱒沢からであれば糠森峠を越えてくる事から、その峠に建てられていた馬頭観音の石碑が、ここにまとめられたものだろうか。


古代の豪族である秦氏の建立した大酒神社の本来は「大避」であり、「難を避ける」などの意図もあったとされるが、「避」は「坂」でもある。その秦氏の大酒神社が鎮座する地は「坂越」。「坂」は境界であり、あの世とも繋がるとされるが、それを意図した原初は「古事記」に登場する"黄泉平坂"からである。
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【筑後国風土記】を一部抜粋「昔この坂の境界の上に、荒ぶる神がいた。往来の半ばは生き、半ばは死んだ。その人々の数知れずというありさまだった。それで人の命を”尽くしの神”と言った。」と記されている。


【肥前国風土記】には「昔々、この川の西に荒ぶる神があり、道行く人が多く殺され、人々の半ばが生き、半ばが死ぬありさまであった。」また別に「郡の西に川がある。名をサカ川という。水源は郡の北の山から出て南に流れ、海に入る。この川上に荒ぶる神があり、往来する人の半ばを生かし、半ばを殺していた。」とある。そして「肥前国風土記」ではその対策として「下田の村の土をとって、人形・馬形を作ってこの神を祀れば、必ず神は和められる、と申し上げた。」と記されている。またこれは【竜田風神祭祝詞】だが、そこから抜粋すると「馬に鞍、種々の幣帛を供えよ。」と、荒ぶる神に対して馬を捧げている。


荒ぶる神としては、遠野の早池峯大神もまた荒ぶる神である。早池峯神社の例大祭において、早池峯大神の魂を乗せた神輿が境内を出る前に駒形神社へ寄るのも、荒ぶる神が好む馬に乗せる意図を含んでいる。つまり、坂などの境界に鎮座する荒ぶる神を鎮める為に必要なのが馬であり、それが後に仏教と結びついて馬頭観音の石碑を峠などの坂道に建てるようになったのだろう。
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とにかく「坂道」であり「峠道」に馬頭観音碑を建てるのは、道の安全を願ってのもの。その馬頭観音の石碑が撤去されたから、遠野の水光園へ行く途中の坂道でレンタサイクルの事故が相次いだと考えられたのは、当然の事であったろう。そしてまた、その馬頭観音の石碑が元に戻ってから事故が無くなったのが当然と思えるのも、また不思議な話である。


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