

馬頭観音は一般的に、道の安全を祈願したものや、馬の供養を含めてのものと思われている。ただ、大々的に馬の供養を意図した石碑は「馬魂碑」と刻まれたものであろう。遠野八幡宮には、その馬を供養を意図した馬魂碑が建てられている。
Gakken Mook「観音菩薩」から「馬頭観音」の項目を読んでみると、馬頭観音が日本に輸入されたのは八世紀のようだ。ただ民間に広まって行くのは、やはり江戸時代からのよう。馬頭観音は、馬の安全を守る神、旅の安全を守る神、濃厚全般の仏として祀られた。やはり、路傍の石仏や石碑などに多く刻まれていったのが江戸時代からであるよう。旅の安全を守るとされたのは、人を乗せて運ぶ馬という事からなのだろう。その旅の安全がいつしか道の安全を祈願して、坂道などに馬頭観音の石碑が建てられていったのだろう。ただ、坂道に建てられた馬頭観音の石碑が多いのは、古来からの風土記の影響もあるのではなかろうか。

古代の豪族である秦氏の建立した大酒神社の本来は「大避」であり、「難を避ける」などの意図もあったとされるが、「避」は「坂」でもある。その秦氏の大酒神社が鎮座する地は「坂越」。「坂」は境界であり、あの世とも繋がるとされるが、それを意図した原初は「古事記」に登場する"黄泉平坂"からである。

【肥前国風土記】には「昔々、この川の西に荒ぶる神があり、道行く人が多く殺され、人々の半ばが生き、半ばが死ぬありさまであった。」また別に「郡の西に川がある。名をサカ川という。水源は郡の北の山から出て南に流れ、海に入る。この川上に荒ぶる神があり、往来する人の半ばを生かし、半ばを殺していた。」とある。そして「肥前国風土記」ではその対策として「下田の村の土をとって、人形・馬形を作ってこの神を祀れば、必ず神は和められる、と申し上げた。」と記されている。またこれは【竜田風神祭祝詞】だが、そこから抜粋すると「馬に鞍、種々の幣帛を供えよ。」と、荒ぶる神に対して馬を捧げている。
荒ぶる神としては、遠野の早池峯大神もまた荒ぶる神である。早池峯神社の例大祭において、早池峯大神の魂を乗せた神輿が境内を出る前に駒形神社へ寄るのも、荒ぶる神が好む馬に乗せる意図を含んでいる。つまり、坂などの境界に鎮座する荒ぶる神を鎮める為に必要なのが馬であり、それが後に仏教と結びついて馬頭観音の石碑を峠などの坂道に建てるようになったのだろう。
