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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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手の怪異

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この「青森怪談」に奇妙な話が書かれている。本州最北端に、下北半島の大間という町がある。その大間にはフェリー乗り場があり、夏になるとよくバイカーなどが近くにテントを張って寝ているそうである。ところがテントで寝ていると金縛りに遭い、見るからに女のか細い白い手が現われるそうな。その白い手が股間を触り、男のナニを果てさせるそうである。この怪談話を書いた作家は、近くに弁天様を祀っているのでもしかして弁天様が?と述べていた。この白い手が神霊や心霊だとしても、何故手だけが現れるのだろうか?
この話は動画でも語られているので、興味のある方は聴いてみてください。
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佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「奥州のザシキワラシの話(13)」では、土淵村字火石の北川という家の奥座敷の襖の隙間から、"細い長い手"が出て、
人を手招きするような話が紹介されている。また「奥州のザシキワラシの話(14)」には、やはり土淵村字火石の長田家に、長押から"細い赤い手"が一本垂れ下がっていたとの話が紹介されている。「奥州のザシキワラシ(13)」での手は、手招きする動きを見せる。しかし「奥州のザシキワラシ(14)」の手は、ただ長押から生えたかのように垂れ下がっていただけである。どちらも同じ土淵村の火石での話であるが、果して同じものであったのか。ただ同じ佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「ザシキワラシの話1」に、陸奥国八戸町の小学校の皁莢の古木から出る"アカテコ"と言う赤い小児の手のような物が下がっていたと書かれているが、これは皁莢の赤くなった果実の事を述べているのだと思う。恐らく「奥州のザシキワラシの話(14)」は、このアカテコにイメージが近いのかもしれない。ところで佐々木喜善は、白い顔をしたザシキワラシは大人しく、赤い顔をしたザシキワラシは怒っていると記している。手にも白い手、赤い手があるか意味があるのかもしれない。「遠野のザシキワラシ(13)(14)」に現れた赤い手の後に、津波などの被害に遭っている事から凶事の知らせの可能性もある。だからと言って、白い手が吉事とも思えないが。


また「ザシキワラシの話2」には、紫波町のザシキワラシが小さな手を人間の懐に入れて肌を撫でまわす悪戯をすると書かれている。股間を触るとは書かれていないが、青森県大間霊体験と似たような感じなのかもしれない。


ところで最近の話だが、遠野の風の丘の建物内部で足だけの霊体が目撃されている。それが幽霊だとしても、足だけが何をするわけがない。ただ歩くだけで世間にアピールする程度しかないだろう。これが人間丸ごとの姿であれば、足で蹴飛ばすというイメージが湧くだろう。ところが足だけでは、歩くという以外に何も無いと思われる。しかし、それが手だけの単体だとすれば、「手招き・触る・握る・叩く・殴る・突っつく」などをしそうなイメージが湧く。また船幽霊などは、白い手だけが現われる場合もあるそうだ。そして、船幽霊の手に柄杓を渡すと、海の水をすくって船に入れ沈没させる行為をする。とにかく足だけとは違い、手だけであっても、かなりのバリエーションある行為をするのが手である。その手のバリエーションの中から青森県大間の霊的体験は、男のイチモツを「触る・握る」に該当するのだろう。
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男のイチモツを掴む話になれば、山形県に河童みたいなものにイチモツを掴まれた武士や坊主の話がある。正体はカワウソともされる。また、岩手県の二戸地方には「したがらごんぼ」と呼ばれる、やはり男のイチモツを掴む妖怪らしきの話がある。「したがらごんぼ」は「下川原のろくでなし」という意味で、その正体は古狸ともされるが、生息域から河童の変化とも云われる。山形県の奇妙なものも"河童みたいなもの"と云われるように、男のイチモツを掴む正体は、どうも曖昧のようだ。



河童のイメージは定着したキャラクターの絵などから、どこか人間に近くて体には毛が無いイメージがある。しかし宮崎県の河童の話に、毎晩湯屋に河童が入りに来る。河童の使った後の湯には毛が一面に浮いていて、大変臭くなるとの話がある。実は遠野の赤河童も、体が赤いというより体が赤い毛に覆われていて、赤く見える河童だとされている。この毛の生えた河童だが、見方によってカワウソとも古狸、または猿ともなる可能性があるだろう。
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男のイチモツを触る怪異から、古狸やカワウソの話になってしまったが、青森県大間での体験談に登場する手とは「女のようなか細い白い手」であるから、毛むくじゃらの手は、やはり有り得ないだろう。


「青森怪談」の作者によれば、近くに弁財天の社があるので、弁財天が現われたのかとも話していたが、似たような神仏と肉体の交わりを紹介しているのは「日本霊異記」の「吉祥天像に魅せられた優婆塞」がある。恐らく夢の中で吉祥天と交わったのだろうが、起きてみると吉祥天像の腰のあたりに不浄(精液)が付いていたので、現代においてはオナペットとして吉祥天像を利用してしまったという話になろうか。有名な親鸞も「覚禅鈔」では神仏と愛し合うなどと書かれている。これらは人間の側から吉祥天に性的な想いを寄せているのだが、「宇津保物語」では逆に、吉祥天から人間の男に対する想いを懸ける可能性を示唆している。「想いを懸ける」とは「懸想」であり、いわゆるセックスである。つまり、神霊側から人間の男とまぐわう話もあって当然という事か。そういえば、早池峯の女神とまぐわった男の話があった。佐々木喜善はその話を伏字を多めにして紹介しているので、細かなところはわからなかったが、それは時代を反映したもので仕方なかったのだろう。
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女が男のイチモツを触るで思い浮かべるのは、阿部貞事件ではなかろうか。男の大事なモノであり、自分の大切にしていたモノを切断して持ち運んだ阿部定。また、即身仏となった、湯殿山系の鉄門海上人がいる。俗名"砂田鉄"は、川人足で遊女と恋仲になった遊び人であり、人殺しでもあった。その砂田鉄が仙人沢で修業をしている時に、恋仲であった遊女が訪れ「下山して、一緒に暮らそう。」と懇願した。砂田鉄はそれを断り、自らのイチモツを切り落とし、その遊女に渡したそうである。そのイチモツの切断は、二つを意味しているだろう。砂田鉄にとって俗世との縁切りであり、遊女の想いの成仏である。阿部定も、この遊女も最終的な想いは、男のイチモツに帰結していたという事か。



これらから、「青森怪談」に書かれている青森県大間での霊的体験の話は、妖怪や獣の悪戯というよりも、男のイチモツに対する女の情念が見え隠れする。

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「青森怪談」に紹介されるフェリー乗り場の近くには、春日弁財天の社があるらしい。ただ、そこには弁財天と一緒に画像の春日優婆塞が合祀されているようだ。その近くにテントを張って寝ていると、その手の怪異に遭遇するらしい。


ところで思うのだが、テントの中に寝る行為とは、体を布で覆う行為と同じではないか。つまり、白い布で体を覆う御霊うつしの儀などの、死者と関係する儀式と相通じるのではなかろうか。夜という暗闇の時間帯は、神霊や魑魅魍魎の時間帯でもある。つまり、神のみあれ神事や御霊うつしの儀など、神との交流をはかる時間帯でもある。グーグルマップで大間のフェリー乗り場と弁財天の社を確認すると、恐らく弁財天の鳥居と社があり、その背後に点在する野原にテントを張って寝たのだと察する。それはつまり、知らず知らず神霊の縄張りにテントを張って寝てしまうとは、我が身を捧げて神霊を呼ぶ行為ではなかろうか。
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ところで、霊的な存在は触れる事が出来ないというイメージがある。それ故に、白い手が現れて実際に男のイチモツを触り果てさせるというのには疑問がある。ただ、佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」で、佐々木喜善はこう述べている。


「愛着恋慕の想いが凝結し、一種の声となり形に変ずる。」




実際には有り得ないだろう心霊体験であるが、もしもそれに理由をつけるならば、この佐々木喜善の言葉しかないだろう。

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