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瀬織津比咩の祭祀其の四十六「熊野神社(石鳥谷)」

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岩手県の神社庁のHPでは、この石鳥谷の熊野神社を下記の様に記している。

「往古は、堂宇が小柴森(権現堂山)にあって早池峯大権現と称し、早池峯の霊山遥拝所だった。のち延享二年(1745年)八月、堂を滝田に、更には猪鼻上野にとお遷ししたようであるが、この間に山影亀吉なる者、京都三熊野神社より御神霊を勧請したことが記録されている。文化三年(1806年)現在の鎮座池関口、大法塚に御遷座申し上げ今日に至っている。明治三年(1870年)四月六日、その筋より社格検分のことあり、村社に格付けされた。」


権現堂山の山名は、以前は小柴森であったようだ。現在の地名から察すれば、滝田は権現堂山の麓になるのだろうか。ただ解せないのは、権現堂山の由来が山の頂に権現を祀るようになったのは、山影亀吉という人物が熊野神を勧請してからという事らしいが、何故に早池峯権現が熊野権現になったのか?取り敢えずの詳細は「聞き書きいしどりや(山影亀吉と権現堂)」に記されている。その内容は、下記の通り。


「今から百五、六十年程前に、権現堂山のふもとの大沢前田に、山影亀吉という相撲取りが住んでいた。亀吉は権現堂山に祈願をかけ、三年とも敗けなかったため、京都に上り、熊野神社の御神体を譲り受けてきて、権現堂山の頂上に、それを安置してお祀りをした。その後、いちいち皆が上まで登れないという事で、権現堂山から堂森に御神体を下げ、そこに堂を建てて拝んでいたが、凶作が続いた年に、いくら祈願しても凶作がなくならなかったので、ここに世話になっているのを忍びかねて、子供を中の家(菊池正造)に預け、権現さんは堂森に置いて、どこに行くとも言わず見えなくなった。話によれば、自分の方の今の宮城県に行ったという話だ。その噂が広がって、小山田の山手に相撲取りがおり、その縁故のところの者が、中の家に預けた子供を欲しいという事で、そこにくれてやった。ところがやっぱり相撲取りの系統で、その人の次の子供(山影亀吉の孫)が相撲取りになって小山田で男山を名乗り、更にその人の系統の者が、男石とか男洋を名乗って、代々小山田で相撲取りとして栄えたという話だ。山影亀吉が祀っていた権現さんは、昔は、新屋敷の山にあった。山影亀吉もどこに行くとも言わないで見えなくなったものだから、新屋敷ではそんな別当も嫌で、それで分家の、今、別当といっている家へ権現さんを持って行き拝ませた。その家は未だに別当という屋号になっている。権現堂山は前は小柴森という山だったが、権現さんを祀るようになってから権現堂山という名前になった。」


権現堂山の山名は、この山影亀吉が熊野の御神体を小柴森に祀ってから権現堂山になったようである。熊野神社の堂宇も、当初は山頂にあったよう。ただ相撲取りであった山影亀吉が何故、小柴森へ祈願したのかという理由は、やはり小柴森時代も早池峯権現が祀ってあったからだろう。相撲取りが祈願するとは、山の女神からの大力を得たいが為であろう。早池峯だけではないが山の女神から大力を授かった話は、いくつかある。また同じ石鳥谷の呼石に水白大明神を祀る神社があるが、そこもまた相撲取りが権現堂山から大力を授かった話に由来する神社であった。それらからも、小柴森は早池峯の山の女神に対する信仰があったのだろう。ただここでも、早池峯権現が熊野権現に変わった理由が記されていない。


ところで滝田という地名が権現堂山の麓だと思ったが、ここでは「大沢前田」という地名が権現堂山の麓だと記されている。ただ現代の地図にとって「大沢前田」は当て嵌まる場所がない為に不明。しかし「聞き書きいしどりや(滝田 継枝久米蔵さんの話)」に地名の由来が登場するのだが、そこに記されている文章に「権現堂の向こうの方に大沢山があるが、権現堂を境にして、こっちの方を大沢前田と言った。大沢前田には昔、家が二、三軒あり、山影亀吉という相撲取りがいた。」と記されている。つまり大きなくくりで権現堂山の麓は滝田であり、大沢前田はその中の一部の地名という事になろうか。
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「聞き書きいしどりや(好地 菊池金六さんの話)」を読むと、どんどん森というのが登場するが、どこにあるのかは不明。ただ恐らく以前の熊野神社の杜を称してどんどん森と呼んだのだろうという憶測が成り立つ内容が下記の様に記されている。


「どんどん森にお宮があって、あそこで祭りをした。相撲なども行ったそうだ。熊野さん(上口の)に石碑を移したのは明治十七年以降で、どんどん森から下げてきたそうだ。」


現在、この熊野神社は石鳥谷の関口にあるのだが、過去に何度か移転して現在の地に落ち着いたという事は一連の流れから理解できる。ところで昔のお祭りには相撲が付きもので、昔はどの神社にも土俵があったのを記憶している。そしてこの熊野神社には相撲取りが信仰していた話がある事からも、土俵が未だにあると云うのも象徴的であろう。とにかく時代と共に神社の土俵は撤去されているので、未だに土俵を有している神社は珍しい部類であろう。
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そして「聞き書きいしどりや(好地 菊池金六さんの話)」には、この熊野神社の事が書かれている。


「天正九年(1581年)四月八日に、紀伊國から熊井佐元という行者が、上口の菊池佐左ェ門の屋敷に泊まった。その当時はここに神社が無かったので、好地の照井大学という者が、早池峯から同山祭祀の分霊として一つの奇石を持ってきて、菊池佐左ェ門の屋敷に安置した。熊井佐元はその早池峯の奇石に熊野神社の分霊を奉安して、部落民を参拝させた。そして、熊井佐元は北方に向かって出発したが、発ってから三日目の日に、その石に瑞光がさしていた。村の人達は驚いて、熊井佐元を連れ戻して言上し、検覧を願ったところ、これはまさしく熊野神社の瑞祥であるからという事で、即時勧請鎮座の式をあげて、社殿を建立して奉斎した。好地の熊野神社は、後に上口から移転になったものである。」


上の文章に登場する、上口も好地も石鳥谷の地名である。ここに登場する照井大学とは、天正時代を生きた人物で薬師神社の別当をしていたようである。ところで最初に紹介した岩手県の神社庁のHPでも早池峯権現が何故に熊野権現に変わったのかは記していない。ただ時代的に、権現堂山そのものの信仰が正法寺の影響を受けた康永三年(1344年)が一番古い事になろうか。つまり早池峯権現が熊野権現となったのも、早池峰山中の奇石と京都の三熊野神社の分霊を合わせ祀ったとところ早池峯の奇石が瑞光を放ったという事が重要なのだろう。これはつまり、熊野の神と早池峯の神が同じであったという事。広義的に熊野権現であり熊野大神とは那智の滝神であり、毎年熊野で瀬織津比咩祭が行われるように、早池峯の神と同名の神が祀られるのが古くから祀られるのが熊野である。ここでは、瀬織津比咩の祭祀としての紹介であるが、その当時の祭祀は、あくまで神名は登場せず、早池峯権現と熊野権現という事であろうが、紛れもなく瀬織津比咩の祭祀であろうから、この石鳥谷の熊野神社も紹介したいと思う。


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