
これまで「平将門と瀬織津比咩」において、平将門と瀬織津比咩が結び付くであろう関係性を、書き記してきた。しかし妙見神を信仰した平将門が、具体的な神名としての瀬織津比咩を信仰していたのか?となれば、どうしても歯切れが悪くなってしまう。それは平将門に関する資料に、瀬織津比咩という具体的な神名を見る事が出来なかったからである。ところがだ、ここにきて平将門の本拠地であった地の神社に、平将門公祭祀として具体的に瀬織津比咩の名が刻まれた石碑が現存している事がわかった。ここに紹介する石碑は、平将門が祭祀した痕跡であるとされている。

しかし事実はどうであれ、何故亀が大量に死んだ事から水神を祀ったのか?亀(カメ)の語源は、神(カミ)に由来するとされる。また平将門の信仰する妙見神は、亀に乗った女神であるのも影響しただろうか。ところで「今昔物語」には、いくつか亀が登場する話がある。その話の殆どが「亀を助けて果報を得る」という古い説話の原型が反映されたとされている。その中の亀に助けられた僧の話には、こう記されている。「亀ノ人ノ恩ヲ報ズル事、今ニ不始ズ、天竺・震旦ヨリ始メテ此ノ朝マデ此ナム有ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ」と記されている事からも、古代中国の古い時代から知れ渡った説話なのだろう。
亀を助けて果報を得る話だが、それは「浦島太郎」でもわかるように、竜宮との繋がりを意味しているように思える。妙見神の乗る亀は亀蛇と云われるが、竜は蛇でもある事から、それは本来玄武の姿を意図したものだろう。玄武は、北方を守護する水神でもある。古代中国の紀元前から、銅鏡に刻まれた言葉があった。「朱鳥と玄武は陰陽を順う」と。朱鳥は南で、玄武は北。古代中国のの皇帝の玉座は南に置かれ、北と向き合う形になっていた。つまり皇帝は、常に北(玄武)と向き合う意思を示していたという事。日本国において、それを強く意識していたのは、即位と共に朱鳥を元号とした天武天皇であったろう。ともかく天皇は、北を意識していた。それは当然、新皇を名乗った平将門もそうではなかったか。
その亀は、国の歴史にも大きく関わる。それは元号である。例えば甲羅に北斗七星の模様がある亀が献じられ、霊亀と改元された。また、白い亀が献じられたので神亀や宝亀という元号となった。亀の甲羅に「天王貴平知百年」と読み取れる亀が献じられ、その文字から二文字を借りて「天平」という元号となったなど、そのまま亀の吉兆を神の啓示と受け止めている。実際に、その神の啓示としての機能は、そのまま古代から続く亀卜が実在している。「日本書紀神代抄」には「神代ノ文字ハ、秘事也。…亀卜ヲスレバ、ソノ折ヤウカ文字ノ体也ト伝。」とある事からも、やはり亀は神との交信をはかる必要な存在であるのだろう。その亀が大量に死んだ事から、この画像の石碑が建てられたのだが、岩手に住んでいると、亀などまったく見ないので亀が大量に死ぬという光景は、まず拝めない。亀の生息を調べると、古い時代の北限は関東までで、後から東北に持ち込まれて定着した地域があるようだ。その亀の死因を調べると、冬眠の失敗・熱中症・感染症・肺炎などがあるようだ。平将門の本拠地は、鬼怒川と利根川が交わる地域であり、今よりももっと川幅と水量があったようだ。まさに水満ちる土地であり、亀にとっては絶好の生息地帯であったのだろう。
亀卜の殆どは海亀の甲羅で行っていたようだが、淡水亀の場合は「対馬亀卜伝」に「山にある神亀、海にある大亀を用ゆ、海に死して其甲の磯よりたるを、浮甲と云ふ云々。山に在を用ひば、下腹の黄なる飴色の亀ぞ、黒きはくそ亀と云て不用云々。」と。調べると、亀卜の殆どは海亀が使用されていたようだが、これは地域性もあるのだろう。ただ平将門の本拠地は、広大な鬼怒川と利根川があり、海も近い事から、川を遡上して海亀もかなり身近であったかもしれない。亀が大量に死んだ原因はわからぬが、普段から大量に亀が生息していた環境であったのだろう。ただ以前「鯰と地震」で書いたが、亀は蛇を抑える存在。要石は亀石の転訛であろうと考えた。つまり、亀の大量の死は龍脈の乱れを引き起こすものとなれば、慌てて北の水神を祀るという事に至ったのではなかろうか。何故なら、瀬織津比咩神社の碑は別の場所にあったものだが、この水神宮の碑は、元々この香取神社境内にあったものだと。そう、要石と呼ばれる石は鹿島神宮と香取神宮に存在する石であり、それを意図したものでこの地に水神宮の碑を建てたものと考える。

韓 愈(768年~824年)は、古代中国の唐中期を代表する文人であった。その韓愈の詩の一節の一部に、こう記されている。一封朝に奏す 九重の天この「九重の天」とはどういう意味であろうか。それについて、星見の家系に伝わる話がある。古代の星見の仕事をしていた人間を、天官と呼んだ。天官は、いつも夜空の観測をしていた。その星見の仕事をする者達の間では、観星台の事を「隈元(くまもと)」と呼んでいた。その星見系に伝わるのには、天であり夜空であり、宇宙の空間を「九間(くま)」と記していたと云う。「隈なく見渡す」の「隈なく」とは、空の隅々までという意味となる。その九間の成立は、八方と玄天から成り立つのであると。即ち、八方の中心となる北辰の座が九間であった。韓愈の詩に書かれる「九重の天」とは、この八方と北辰から成り立つ「九間」であると。
この九重の桜が、平将門が植えたにしろ、平将門ゆかりの人間が植えたにしろ、何かしらの意味を持って"九重の桜"とした筈である。確かに、新皇を名乗った事から新皇の皇居もしくは王宮をも意味するのだろう。しかし九重が八方と玄天から成り立つものとなれば、妙見を信仰する平将門は八重桜に北辰と自らを重ねたのかもしれない。その想いの背景には、平将門が16歳の頃平安京へと行き、感じ得たものがあると考える。
「将門記」には、平将門がえがいた構想に「相馬の郡大井津をもって、号して京の大津となさん」というものがある。京の大津とは、天智天皇時代の都であった。考えてみると、平将門は桓武天皇の血筋。平安京を築いた桓武天皇の即位とは、天武天皇の血の流れを天智天皇に戻した事でもあった。平将門が移り住んだ平安京の北方には、北斗七星が降った地とされる比叡山がある。また平安京水源は、天智天皇の都のあった琵琶湖であった。その琵琶湖は、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」の移し世でもあり、その中心が佐久奈度神社建立の要因ともなった、桜谷がある。
「龍神は天空から地上を窺う時、足掛かりとなる北に聳える山を見つけて舞い降りる。」と伝わる。それが平安京では、北斗が降った比叡山となる。そして、その比叡山の奥の院とは、琵琶湖の竹生島である。その竹生島には宝厳寺が建てられているが、その由緒が、神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に"天照大神"が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし宝厳寺を開基させたという。しかしそれよりも古い事となるが、宝厳寺に伝わる古文書「竹生嶋縁起略」に「欽明天皇六年乙丑四月初巳日に弁才天女、大内に示現して曰く、我は竹生島の弁才天、天照大神の分魂なり」との神託があったとされている。聖武天皇よりも更に古い、欽明天皇時代に竹生島の祭祀が遡っている。そして天照大神の分魂とは、荒魂という事になる。「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」と。天照大神の和魂は常に不動であり、伊勢神宮に坐すのは和魂であり、先鋒として各地に進むのは荒魂の性格であるからだ。また古い伝説を基にして作られた「田村の草紙」では、坂上田村麻呂と妻となった鈴鹿御前の正体が、琵琶湖の竹生島の弁才天であると記されている。鈴鹿御前は瀬織津比咩であるのは確かであり、竹生島の弁才天もまた瀬織津比咩であるのは、古くからの伝承を汲み取ってのものだと思う。その瀬織津比咩は、琵琶湖の桜谷から桜谷明神、桜の女神とも呼ばれ、また妙見の女神とも云われる。古田武彦「まぼろしの祝詞誕生」によれば、「大祓祝詞」に描写される場所である地名は玄界灘を中心としたものであろうとしている。それらの地名がいつしか、琵琶湖周辺に移転されたのは、氏族の流れと信仰の流れからくるものであろうと。
九重桜とは、平将門が平安京時代に得た想いと信仰を九曜紋を重ねたものと理解する。八重桜の中心に、将門自らが位置し九曜となるよう願ったのが、九重の桜ではなかったか。しかし、その考えこそが傲慢であり、妙見の女神から見放された要因となったのではなかろうか。

瀬織津比鳴神社
明治中興派夫改再祀水死〇〇〇
さて、本題に戻ろうか。送られてきた画像を見ても、いくつか読み取れない文字があり、そこで色々と調べみた。まず年代が寛永九と刻まれている事から、17世紀の石碑なのだろう。そして瀬織津比咩の神名が「瀬織津比鳴」になっているのは、かなり珍しい。ただ、この石碑にはいくつかの誤字があるので、恐らく間違えて瀬織津比鳴としたのだろう。そしてその瀬織津比咩の下の文字は「神社」であった。かつて片神辺という地にあった石碑なそうだが、それがいつしか現在地に移動されたようだ。この瀬織津比咩神社は、平将門公が祭祀した神社であったと伝わる。つまり将門公は、瀬織津比咩という神名を知っていたと思って良いのだろう。
そして「中興」「再祀」の言葉を結んで訳せば、「廃れていた信仰を再び祀りなおした」と訳して良いのだろう。が、続く「水死」以降が不明なために、全体的な意味を理解できない現状となっている。また明治の文字がある為に、明治時代かとも思ったが、明治を調べると江戸時代だけで八回もの元号の候補にもなった言葉なので、昔はかなり有名な言葉であったのだろう。また文字の摩耗具合からも、確かに明治時代ではなく江戸時代と思える。その明治の意味とは「聖人が北極星の様に顔を南に向けて留まる事を知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」の意である事からも、平将門公向きの言葉であるように思える。

左面 祭祀幾千万無亀死体怨恨長谷川入相沼
御願仁王五十九代宇多天王〇〇〇〇〇
これは、水神宮碑と同じく、亀の大量死による祭祀であった。普通に訳せば、「幾千万亀死体」は、多くの亀が死んだとなるのだろう。ただわからぬのが「怨恨」の文字だ。「長谷川入相沼」だが、この地は長谷(ながや)であるので、長谷川とはならないのだろう。相沼とは氏名なのか「入相沼」で「互いに沼に入る」と訳するのか…。
また宇多天皇の名前が出てくるのには、違和感を覚える。何故なら、平将門公よりも前の時代を生きた天皇であるからだ。ところで「仁王」と刻まれているが、これは恐らく「人王」であろう。確かに宇多天皇は、人王五十九代天皇であるから。また「天王」と刻まれてあるのも「天皇」の間違いだと思う。これは「人王」の続きの流れから、誤って刻んでしまったものではないだろうか。
宇多天皇と関わる怨恨は、菅原道真しかない。関東には、多くの天満宮が祀られているが、それは朝廷憎しの感情からであり、朝廷が恐れる菅原道真を祀るという皮肉を込めてのものであったようだ。ところで宇多天皇が譲位した後、熊野へとよく参詣した。熊野詣でが流行った発端が宇多天皇である事を考えると、熊野大神である那智滝神である瀬織津比咩との何らかの信仰があったのかもしれない。気になるのは、平安京の八瀬には天満宮が祀られているが、その創建は「洛北誌」によれば、菅原道真が幼少の頃。菅原道真が祭神となる以前は、布留神宮と同じ水天龍王が祀られていた。ここでは長くなるので詳細を省くが、その布留神宮つまり石上神宮の神とは天照大神荒魂であり、その神名は瀬織津比咩。つまり八瀬の天満宮に水天龍王から菅原道真に祭神変更された時、宇多天皇が関わっていた可能性があったのではなかろうか。天照大神荒魂は、古来からの祟り神である。その祟り神に、後から怨霊となった菅原道真を重ね合わせた宇多天皇の可能性。その宇多天皇の名を刻むことによって、怨霊神である平将門に、更なる怨霊神である菅原道真を重ねたか。そして、それらを統べる神は、歴史から名を消された祟り神である瀬織津比咩。そう考えると、朝廷に対する怨恨の碑の様にも思えてしまう。

右面 延喜元年十一月水天宮大日如来辰巳山岳
創建奉御願主宮子長谷祖宇也〇〇〇
これもまた、悩ましい文字が刻まれている。まず延喜元年は醍醐天皇の時世だが、菅原道真が大宰府に流された年でもある。やはりどこか、この石碑には暗に菅原道真を意識しているのではなかろうか。また、ここにも水天宮の文字が刻まれているが、これもやはり水神宮であるのだろう。この水天宮が大日如来と繋がって刻まれている。仏教が日本に流入し、本地垂迹という思想が広がった。神と仏を結び付ける思想ではあるが、仏の方が優位に立つ思想でもある。大日如来は、最高神でもある天照大神の本地という事にされた。しかし、天照大神は太陽神であり、水天宮、もしくは水神宮と結びつくイメージが無い。また密教系では、大日如来の垂迹として不動明王となる場合もある。不動明王であれば、水天宮と結びついても違和感が無かったろうが、何故に水天宮大日如来なのか。もう一つの可能性は、水神である天照大神荒魂となるだろう。
