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三女神伝説再考(其の三)「織姫の娘」

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坂上田村麻呂、東夷征伐の時、奥州の国津神の後胤なる玉山立烏帽子姫という者あり。田村麻呂は東奥を守護せり後、立烏帽子姫と夫婦になりて、一男一女を産めり。其の名を「田村義道」「松林姫」と言へり。其の後「松林姫」は三女を産む。「お石」「お六」「お初」と言った。三人は各所にありしが牛や鳥に乗りて集まりし所を附馬牛という附き馬牛にて、到着の儀なり。天長年間、「お石」は我が守護神として崇敬せし速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、「お六」は、守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、「お初」は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。
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この三女神伝説は、遠野市の綾織に伝わるもので坂上田村麻呂と立烏帽子姫が登場する。坂上田村麻呂は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する事から、蝦夷平定には無くてはならない人物であったのは今でも広く認識されている。さて立烏帽子姫だが、「鈴鹿の草紙」「田村の草紙」「田村三代記」の謡曲・浄瑠璃などにも登場し、坂上田村麻呂の"正義"と共に、その妻となった存在として蝦夷国である東北に語り継がれて来た。これらは完全な創作物ではなく、古くから伝承されたものをベースに話が創られたものと思う。その坂上田村麻呂は、北方鎮護の毘沙門天の化身とも伝えられる。そして、その毘沙門天の妻として吉祥天が宗教界では認知されている。


室町時代から江戸時代にかけて成立したとされる「毘沙門の本地」は、天の川を中心とした星巡りの話となっているが、登場する男と女の最後は、毘沙門天と吉祥天となる話となっている。この星々を巡る旅の話の背景には、恐らく天台宗などの密教系が絡んでいるのは間違いないだろう。当然、蝦夷平定を成した坂上田村麻呂が毘沙門天の化身と呼ばれたのもまた"北方鎮護の毘沙門天"と重ねられた為であろう。そして立烏帽子姫は鈴鹿御前でもあるのだが、その鈴鹿御前は京都の祇園祭に瀬織津比咩として登場している。その鈴鹿御前であり立烏帽子姫は「田村の草紙」によれば、その正体は琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁才天であるとしている。弁財天と吉祥天は、しばしば混同して伝えられ、ある意味同神でもある。蓮華の花と縁深いのは吉祥天であるのだが、その吉祥天とも重ねられる瀬織津比咩は、坂上田村麻呂同様、蝦夷平定の為に来た神でもあった。よって毘沙門天の化身である坂上田村麻呂が、瀬織津比咩の化身である鈴鹿御前や立烏帽子姫と結び付くのは当然の帰結であった。

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そして遠野三山の一つである石上神社には、早池峯の瀬織津比咩が七夕の織女と結び付く伝承が伝わる。画像は、石上山上空の天の川。その天の川の織女だが、古代中国では織女三星と呼ばれている。三星といっても夏の大三角形(ベガ・アルタイル・デネブ・)の三星ではなく、織女星の下に正三角形を成す小さい星を合せたものを織女三星と呼ぶ。これは「大星を母后となし、二小星を女子となす。」と伝わる。
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岩手県には、いくつもの三女神伝説が伝わる。ただし、その頂点となる山は早池峯で変わらない。そう、早池峯を中心に三女神伝説が創られたと言っても良いだろう。そして特筆すべきは、その三女神伝説を伝えたのは全て菊池氏によるものであると。三女神としての古くは、やはり宗像三女神であろう。天安河原で、素戔男尊と対峙した天照大神の間に誕生したのが、宗像三女神。これは天の川での、彦星と織姫に相当する話として認識されている。つまり天安河原が天の川であるのなら、宗像三女神は織女三星に相当するか。


三女神伝説を読んでいると、常に母が居て三人の娘を産んでいる。その三人の娘が各々三山に飛んで行くのだが、どうも不自然である。何故なら、常に早池峯を手にする娘が一人いて、その他二人が他の山に納まっている。これはつまり、早池峯ありきの伝説である事が理解できる。それ以外は、付け足しの山の様に思えるのだ。ここでもう一度、岩手県の神社庁に伝わる「早池峯神社略縁起」を読んでみよう。



そもそも新山大権現之本地を尋ね奉るに、人王五十代桓武天皇延暦十四年乙亥三月十七日當山江、三柱姫神達、天降満します也。新山と申すは古起松杉苔むし老いた流枝に蔦蔓生え登り、山葉に曳月はかすかに見ゆ木魂ひびき鳥の聲あたかも、深山幽谷の如し。南に北上川底清く、水音高く御手洗也。雲井に栄え登る月影浪に光を浮かしめ、北は千尋に余る、廣野と萩薄生え繁。是を名付けて、新山野と申す也。

四方青垣山にして宝殿棟高く、御床津比の動き鳴る事なく豊明に明るい座満たして宣祢禰宜の振鈴、いや高く響、茂あらたなり今茂かわらぬ。三つの石あり、三柱姫神鎮座満します。故是を影向三神石と申す也。

然に氏御神天降給故を尋ね奉るに、東国魔生変化の鬼神充満し、多くの人民をなやまし、国土を魔界に成さんとせしを、天帝聞し召せ給、田村大明神を天降し、悪魔化道退散なさしめ、国土を治め給いしとかや、弘仁二年巌鷲山田村大権現と顕れ給い妃神を王東山大権現と顕し給いしとかや、其の御子三柱の姫神當山鎮座満しまし給、姫神達折々四方を御詠有りし遥か東方に雲を貫く高山あり。旭の光々たり、月の満々たるも、峰の高きを貴み給いて曰く我等山川の清を求め峯の高きに登り末を守らん。爰に我等の三躰を残し置くと宣いて、東方へ行幸ありしとなん。

人民肝留以催し、跡伏し拝み、悉く信心す時に姫神達東山に登給いれるに、童子一人顕れ、かれに山々を問わしめ給へば、童子指さし向に見ゆるは、於呂古志山、何方は大石神山此方は早池峯山と申す三つの山也。中にも峯高く絶頂盤石四方巌々として空にそびい鳥類翼を休めがたし。閼伽井より冷泉湧き出る是を名付けて早池峯と申す也。常に紫雲靄起こし、音楽の音止まず。折々天人舞い下り、不測之霊山也と言うを終わらず、虚空に上り雲中に声有。我は、是一の路権現なりと失せ給ふ御跡拝み伏す。

天に向かい此の三つ山、授け霊験を下し給いと祈り給へば、不測屋奈末の妹神の御胸に八葉の蓮華光曜として、天降蓮華の?に舞光を放ちて飛び、早池峯山大権現と顕れ給い、姉神は大石神山大権現と顕れ、第二姫神於呂古志山大権現と顕れ、国土を守り給いとかや況や御神徳著しき事、當社に先魂坐す故當社を早池峯新山大権現と齋奉流也。又神道には、瀬織津姫也大権現と書て大権現と讀み奉る也。古今の霊場にて弥陀薬師観音の三像相殿に敬い奉る事、其の徳社に満りと云々。

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この「早池峯神社略縁起」で不自然なのは、最終的に遠野三山の縁起書となっている事だ。これは、大迫の早池峯縁起に似通っているのがわかる。大迫の早池峯縁起は、田中某が早池峯へ登った時、遠野側からも始閣藤蔵が登って来て、同じ霊験に遭遇したとする。遠野側の早池峯縁起には、始閣藤蔵だけの話となっているのにだ。これはつまり、遠野側の縁起に気を使ってのものと思わざる負えない。そして「早池峯神社略縁起」もまた、三人の女神が遠野三山を選んだという事になっているが、その前に三女神が影向したのは盛岡側の三石になっているのだという、僅かながらの起源主張となっている可愛らしさである。これらから、「早池峯神社略縁起」も、大迫の早池峯神社縁起もまた、先にあった遠野早池峯縁起を意識しつつ創られた縁起書であると思われる。遠野側の縁起書は、あくまで早池峯の神に対する祈願であり、そこには三女神伝説は生じていない。恐らく星の宗教と呼ばれる天台宗と、その後の真言宗の教義の元に創られたのが三女神伝説であると思うのだ。



岩手山は、坂上田村麻呂を主体とし毘沙門天を重ね合せて祀っている。それと対になる坂上田村麻呂の妻となった、立烏帽子姫が姫神山へと祀られた。この二柱からの娘が三女神となる、もしくは間に別の父神と母神を置いて三娘を誕生させている。これは「早池峯神社略縁起」と遠野の伊豆神社に伝わる伝説が、その地域性を帯びた為だと思われる。


岩手三山伝説が、本妻と妾が姫神山と早池峯で混同されるのは、姫神山と早池峯が、どちらも同じ女神であるからだ。岩手山は、毘沙門天であり坂上田村麻呂でもある男神の山となる。その対と為る姫神山には立烏帽子姫であるが、これは先に記したように早池峯の女神でもある瀬織津比咩である。ここで思い出すのは「早池峯山妙泉寺文書」での「延長年中、本宮后宮修理、並びに新山宮を修復す。」である。当初「后」とは妃の事であるから女神の事であろう。つまりそれは現在、早池峯神社に祀られる女神である瀬織津比咩の事を言うのであろうが、それではその女神に相対する男神とはいったい?と疑問に思っていた。早池峯の祭祀の歴史には女神の姿しか感じられず、男神の所在がまったくわからなかったのだが、早池峯の女神を三女神の母后とすれば、全てが成り立つ。つまり三女神伝説、もしくは三山伝説の三角形の頂点に立つのは全て早池峯であると考えれば、すんなりと理解できる。恐らく三女神伝説の背景は、天台宗などの密教系による星の伝承を重ねて創られたものだと思えるのだ。次はその辺のところを詳しく書こうと思う。

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