
遠野六日市の鍛冶職人松本三右衛門という人の家に夜になるとどこからとも無くがらがらと石が降って来る。それが評判になって町中の者は見物にやって来たが、見物人のいるうちは何の変った事も無くて、帰ってしまうとまた降った。毎朝石を表に出して、昨夜もこんなに降りましたと見せる程であった。ちょうどその頃に、元町の小笠原という家の赤犬が、御城下で一匹の非常に大きな狐を捕った。尻尾が二本に岐れて、いずれも半分以上も白くなっている古狐であった。この狐が捕えられてから、松本の家に石の降ることは止んだという。それでも今でも遠野ではこの家のことを石こ鍛冶と呼んでいる。
「遠野物語拾遺192」

松本家では平成初期頃まで、庭先に降って来た小石の山を置いていたそうだが、やはり邪魔なので処分したという事。
ところで、この「遠野物語拾遺192」と似た様な話が、綾織町赤坂にもある。やはり小石を降らせる狐の話だ。その石の降った方向を教えて貰ったが、そこには上の画像に示した稲荷の社があった。つまり、この稲荷に祀られる狐の悪戯という事だったか。松本家では、稲荷を祀ってはいないのだが、その敷地の裏方に、小さな稲荷の社がある。もしかして、この悪戯の正体は、その稲荷であろうか?
「遠野物語拾遺192」では、御城下で捕まった二股に分れた尻尾の狐の仕業という事になったようだ。「遠野物語拾遺196」では、鍋倉山と川にも近い大慈寺が、狐に丁度良い棲家であるような事を書いたが、この松本家の場所もまた、狐にとって立地の良い場所ではあるだろう。実は、この「遠野物語拾遺192」も若干省略され、改編されて記されている。
六日町に石コ鍛冶といはるゝ鍛冶屋あり。今の主人より二、三代以前の事也。家運傾きて思はしからず。されども当時の主人勤勉を以て近隣に知られたり。或日のこと屋根より家中に石の降りしことあり。家人大いに驚きさわぐ、その物音に隣人来りて覗ふに、降り落し石他の人には見えず。只家人の眼にのみこれを見るを得たりと、此の事しばしばありてより次第に栄たりといふ。この石今尚ほ神棚に供へて拝するといふ。
つまり、尻尾が二股に分れた狐の話は後付けであり、本来の話はあくまでも石が降ってきた後、家が栄えたという事になっている。石が降るのが他人に見えないのも、あくまで松本家の為に降った石である事を意味している。

稲荷の社には、画像の様にしばしば石が祀られている場合がある。ただそれはコンセイサマの形をしている場合があるのは、五穀豊穣を願うからで、狐石信仰と、コンセイサマ信仰が結び付いたのだろう。画像は遠野の志田I稲荷。
石と狐の関係を探すと殺生石に辿り着いてしまう。殺生石が割れた時に、無数の狐靈が飛び出して全国に広まったという。秩父に伝わる話では、尾崎狐が憑くという家系では、その霊が憑いた小石を桐の箱に入れて神棚に置いて祀っているという。または、庭の池の小島に小さな祠を立てて、そこに小石を入れて屋敷神として祀っている例がある。なんでも、尾崎狐の家の者が、ある畑が見事に育っているのを見、小石も多く妙だなと思って畑主に聞くと、小石を肥料にしていると冗談を言ったら、一晩のうちに尾崎狐がその小石を尾崎狐家の畑に運んだという。これは、尾崎狐が家に好運をもたらす為に運んだという。一晩で石が集まる話は、「遠野物語拾遺192」と、この尾崎狐の話くらいだろうか。元々は殺生石が砕け飛び散った石という伝承から発生した信仰のようである。小さな石には、その家の守る狐が宿るという。松本家にも、狐が石に宿って降ってきたという事だろう。