
八橋とか言へる瞽しやのしらべをあらためしより、つくし琴は名のみにして、その音いろをきゝ知れる人さへまれなれば、そのうらみをしらせんとてか、かゝる姿をあらはしけんと、夢心におもひぬ。
「百鬼夜行絵巻(琴古主)」
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画像の琴古主は、付喪神という表現での姿なのだろう。解説には「龍形の胴を現し、鳳舌の下に大きな目玉が二つ光っている」と記されており、龍の姿になった箏なのだろう。ただ箏は、奈良時代には既に龍の象徴として、古代中国から日本にもたらされているので、古代中国では初めから龍の象徴として作られた楽器だったのかもしれない。その箏を"魂の器"と古代日本では呼んでいたのは、箏の持ち主の魂が宿ると云われた為だった。ただ、この箏古主の姿は龍である。九州の銀鏡神社に伝わる磐長姫の伝承では、鏡に映った顔が醜い龍の顔であった為に、磐長姫は鏡を放り投げたと云う。つまり、古代においての龍の姿は醜いとされていた。例えば蛇神と云われる磯良神も、自らが醜いと悟っていた為、神功皇后に呼ばれたもなかなか出てこなかったのだろう。そういう意味では、付喪神であるこの琴古主の持ち主とは、龍の心を持つものであったろうか。

菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」によれば、琴畑の地名の由来は、遠野に流れ着いた秦氏が今の琴畑に住み付いて土地を開拓し、その畑仕事の合間に琴を奏でたからだという伝承を紹介している。確かに秦氏は、中央を追われ全国に散らばったと云い、その秦氏の住み付いた地には、秦・旗・幡・畑・波多などの名が残っている。常陸国にもそれは顕著で、秦氏関連の地名には何故か、星宮神社や静神社などの織物系神社が建立されている。倭文織物は古来「志豆波多(しずはた)」と呼び、秦氏が持ち込んだものと云われている。
菊池照雄は、琴畑に秦氏が住み付いたという裏付けに、マヨヒガ伝説をあげている。朱塗り文化の無い遠野に、何故マヨヒガ伝説では琴畑川に朱塗りの椀が流れて来たのか?多種多芸であった秦一族の一部は北陸へと逃げて、今では有名な輪島塗の祖となった。恐らく遠野に逃げ延びた秦氏は、鉄器集団の一族であり、白望山などに携わった可能性はあるだろう。朱塗り椀の話は、遠野では朱塗り文化がそれ程発達していない為に、ただ秦一族の伝承を持ち込んだだけのように思える。ただ伝承によれば、畑仕事の合間に箏を奏でたとあるが、それでは秦氏の秦(はた)と畑(はた)が重複してしまう。

それでは、何故に箏であったのか考えてみよう。箏は「琴」と「箏」の二つの漢字を使用する場合があるが、正しくは「箏」であり、「琴」は弦楽器の総称であった。その箏の材質は桐材で造る。そう、桐で思い出すのは、やはりマヨヒガの伝承となる。琴畑川から"桐の花"が流れてきた為、それを遡ったらマヨヒガに行き当ったという話もあり、そのマヨヒガの中心となる白望山への入り口は、琴畑集落であった。ここでも、桐を通して箏と繋がってくる。
また白望山の白望(しろみ)も本来、九州の銀鏡(しろみ)ではなかったろうか。九州の銀鏡周辺は秦氏の縄張りであるのに加え、その秦氏と共存していたのは、遠野にも姓の多い菊池氏であった。もしもそうであるならば、琴畑に移り住んだ秦氏とは、地名や伝承を考慮に入れたなら、九州の銀鏡地域に住んでいた秦氏である可能性は高いのではないか。
そして箏だが、先に紹介したように龍の象徴であり見立てであった。その箏を利用したものに、琴占というものがある。神を招く審神者が神懸りする時に用いるのが箏であり、その箏の調べが神の降臨する神聖な空間を作れ出したのだという。ところで、畑仕事の合間に箏を奏でたという伝承だが、琴畑集落は、完全な山間の集落であり、その中心に琴畑川が流れている。つまり琴畑集落の畑とは全て川傍である。箏の名称に竜頭があり、竜尾がある。他にも竜角・竜甲などという部分名称があるのは、その箏が龍そのものである事に加えて、その箏の形状が川を意識していると云われる。確かに龍は川に見立てられ、その龍は箏にも見立てられるのならば、箏の形状が川であってもよいのだろう。その箏を奏でて、どういう神を呼び出すのか?と考えれば、それは恐らく龍神でしかないだろう。奇しくも琴畑川には、その龍神を祀る神社があるではないか。箏を奏でたのは畑仕事の合間というより、遠野の飢饉の歴史を考えみても、その琴畑川伝いに箏の音色を響かせ、龍神を呼ぶ為の雨乞い儀礼ではなかったろうか。箏が龍そのものであるならば、琴畑とは「秦氏の崇敬する龍神」という意になるのではなかろうか。