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Channel: 不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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「遠野物語拾遺110(胡瓜)」

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前に言った遠野の村兵という家では、胡瓜を作らぬ。そのわけは、昔この家の厩別家に美しい女房がいたが、ある日裏の畠へ胡瓜を取りに行ったまま行方不明になった。そうしてその後に上郷村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、ある沢辺に下りたところが、その流れに一人の女が洗濯をしていた。よく見るとそれは先年いなくなった厩別家の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。その話に、あの時自分は山男に攫われて来てここに棲んでいる。夫は至って気の優しい親切な男だが、極めて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。今は気仙沼の浜に魚を買いに行って留守だが、あそこ迄は何時も半刻程の道のりであるから、今にも帰って来よう。決してよい事は無いから、どうぞ早くここを立ち去って下され。そうして家に帰ったら、私はこんな山の中に無事にいるからと両親に伝えてくれと頼んだという。それからこの家では胡瓜を植えぬのだそうである。

                               「遠野物語拾遺110」

胡瓜の俗信は至って多いが、とりわけ有名なのは牛頭天王と胡瓜の関係であろうか。また牛頭天王の使役として河童も登場する事から、村兵だけで無く、遠野にも縁深いのかもしれない。上郷町では、神々が牛頭天王の元へ馬に乗って作物の相談に行くので藁で馬を作るのだと云う。水野正好「古代を考える」では、馬に乗る神の大抵は”厄神”であると説いているが、それを遠野に喩えれば、いろいろと話が繋がって来る。その厄神と繋がるのが胡瓜であるならば、確かに子供が河童に足を引張られて死んだなどと云う水難事故に胡瓜を奉げるのは、河童が厄神として存在し、それを鎮める為の胡瓜にもなる。ただ村兵の場合は胡瓜をきっかけに美人な妻を山男に奪われたので、胡瓜憎しは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と同じとなる。

ところで山男とはパッと感じるには、なんとなくヒマラヤのイエティみたいなイメージに思うかもしれないが、この「遠野物語拾遺110」での山男は、魚を買いに浜まで出かけていると書いている事から、人間の生活感が滲み出ていると思う人が多いだろう。つまり山男とは、里では無く、山に生活を求めて住んでいる人間であると、ここでは言っている。ただし里に住む者にとっては、恐ろしい山に住むと言うだけで、人もまた恐ろしい存在になってしまうという事だろう。

胡瓜と厄神に関しては、別の機会に書く事としよう。

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