
「往時早瀬川の分流は、鶯崎より懸上稲荷の麓を過ぎて、来内川に合流せることあり。此の頃、其の川筋に外川の土名ありき、原と一大平石横はり殺生石と名づく。里俗或は神狐の野狐を罰殺せし怪談を伝ふるも由来詳ならす。明治初年水田開拓の際之を撤去して今は亡し。」

殺生石が有名になったのは15世紀前半に成立した「神明鏡」と「玉藻前物語」、もしくは能の「殺生石」によるものだろう。ただし、遠野に玉藻前は来ていないし、殺生石が飛んで来たという伝承も無い。ただ唐突に、欠上稲荷の近くの外川という地に、殺生石があるという伝承だけが残っている。これは、どういう流れによるものであろうか。ただ上で紹介した話に記されたこの箇所「里俗或は神狐の野狐を罰殺せし怪談を伝ふるも由来詳ならす。」を読むと、中村禎里「動物妖怪譚」の記述が思い出される。
中村禎里は、玉藻前の話を、狐が関東武士の狩によって殺された事から、創られた話ではないかと展開している。玉藻前の舞台は西の都での出来事であるが、それが何故に、玉藻前の魂が凝り固まって出来た殺生石が栃木県にあるのか。京都には伏見稲荷はあるものの、何故か稲荷神社は東日本に比べて普及していない。全国に数多くある稲荷神社がある地域は、関東以北に集中している。つまり関東以北では、稲荷というよりも狐に対する信仰が強かった為、その稲荷のシンボルである狐を容易に受け入れる土壌があったようだ。殺生石伝説誕生の頃、この石の側を通る人々に危害を加えるという言い伝えがあったそうだ。つまり、玉藻前というより神狐による祟りが強調されたものだったよう。恐らくその伝承に、玉藻前が重ねられたのだろう。日本各地の古い風土記に、似た様な話がある。堺の明神であり女神が、その峠を通る人々に危害を加える話である。その系譜を殺生石が、受け継いでいる話であると思う。これらから遠野の殺生石は玉藻前でなく、あくまで狐の祟りからのものであると思うのだ。

「コレラは感染すると病勢が早く、死を免れないことから「即死病」とも呼ばれた。さらに感染者は、激痛や大量の吐瀉に襲われ、こぶができ、全身がしびれる。しかも黒くしわしわになって息絶えるという、死相の異様さも恐るべきものであった。庶民にとってコレラの流行は、これまでにない魔物の仕業と思わざるをえなかったのである。」
コレラの歴史を調べると、世界的大流行した文政五年(1822年)九州から入り込み、東海道を経たが箱根で留まり、江戸には到達しなかったそうである。そして2度目の世界的大流行は、日本に及ばなかったが、安政五年(1858年)の3度目の世界的大流行には江戸まで及び、3年に渡って続き、多くの死者を出したそうだ。江戸の人々は、このコレラを異人がもたらした悪病と信じたものとは別に、悪狐がもたらしたとも信じられたようだ。その狐とは、人の体に侵入し憑き狂わせる管狐の仕業だと信じられ、それが流布したようである。それで思い出すのは、殺生石に纏わる伝承。その殺生石の伝承の中に登場する玄翁和尚のエピソードが思い出されるのだ。玄翁和尚は、殺生石を調伏しようとした"かさご和尚"に対し、既に退治したと偽り、自ら殺生石を調伏しようとしたが失敗し、殺生石が大きく割れて、その中から無数の管狐の霊が噴出してしまい、日本全土に広がって、人々に憑依するようになってしまったという話は、かなり印象に残る。恐らく安政五年に広がった、狐狼狸病は管狐によるものというデマは、この殺生石の伝承が、この時代まで生々しく息づいている証では無かっただろうか。

平安時代に、常陸国や上野国などの今でいう関東周辺諸国から、現在の岩手県の辺りに四千人程が移住してきた記録がある。さらに、源頼朝による奥州征伐の後、帰らないで、そのまま居残った人々もまた多くいたという。それから関東と東北の人と文化の交流があったのだと思える。例えば、岩手県の久慈市の久慈という地名の発祥が、未だにわからないとされているが、常陸国の久慈郡の人達が移り住んで久慈となったと考えても不思議ではない。また遠野に伝わる清瀧姫の伝説も、群馬県桐生市に伝わる白滝姫伝説とそっくりなのも、恐らく上野国から移り住んだ人が伝えたものと考えればしっくりくる。遠野の清瀧姫伝説に登場する山田という地名は、上野国の山田郡、もしくは常陸国の山田郡の可能性が高いからだ。岩手県から東京まで、歩いて10日から12日程度で行けるようだ。つまり、1ヶ月あれば東京と岩手を行き来できるという事は、情報の伝達も思ったより早く関東の情報が伝わるという事。栃木県の殺生石伝説が、いつの間にか遠野に辿りついて根付いても、有り得る話である。
ともかく管狐がもたらす悪病とは、民衆にとって未知の疫病、伝染病という事になろう。遠野の江戸時代までの歴史の中で、コレラが流行ったという記録を見つける事が出来なかった。例えば遠野には、天然痘である疱瘡神を祀る社などがある。また疫病の流行には、牛頭天王を祀ったりもしたようだ。また多かった瘧病とは、蚊の媒介によるマラリアの事であり、それを治す石の信仰などはある。コレラの流行った文政五年の後の文久二年(1862年)、遠野で麻疹が大流行し、多くの死者が出た記録がある。ただ、それ以前に麻疹の記録は無い。考えられるのは、麻疹もコレラもまとめて流行病というくくりであったのだろうか。ただし民間療法で簡単に撃退できる病でも無い事から、遠野において、コレラは到達しなかったと考えて良いのだろう。ただ麻疹の記録が、江戸で大流行した安政五年のコレラの四年後と考えれば、もしかして殺生石の伝説と重なるのではなかろうか。
正体不明の悪病を管狐がもたらしたと伝わった安政五年から四年後、遠野に大流行した麻疹がやはり、管狐がもたらしたものだと。妖怪や物の怪の発生は、事件や事象があり、後から物の怪の仕業にされるというのが大抵である。何故、殺生石が欠上稲荷の側にあったのかと考えた場合、狐を祀る神社は、その狐の霊を鎮める、もしくは調伏するのに長けていると考えるのが普通であろう。時代的には日蓮宗が、狐憑きなどのお祓いをしていたようだが、それでは遠野で一番古く霊験あらたかとされていた稲荷神社の立つ瀬がない。あくまで想像の域になるが、文久二年(1862年)麻疹という未知の疫病をもたらした悪狐を調伏する為に殺生石伝説を利用したと考えるのが妥当ではなかろうか。そうでなければ、遠野に殺生石がある筈が無いからだ。